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1月1日 |
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この年度のJGA役員
会 長 大谷光明(会長新任)
理事長 石井光次郎(理事長新任)
理 事 後藤文夫、金子隆三、野村駿吉、高畑誠一、廣岡久右衛門、中村寅之助 |
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1月5日〜7日 |
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フィリピン・オープン選手権にプロ6人が出場。宮本留吉が3位に入賞。 |
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5月28日〜30日 |
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東京ゴルフ倶楽部(朝霞コース)で行われた日本オープン選手権に、宮本留吉が6度目の優勝。
同選手権の最多優勝記録を樹立。 |
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6月30日 |
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銀製品使用の中止と銀製カップ類の供出について、各倶楽部あてに依頼状を出す。 |
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9月1日 |
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ゴルフ自粛、自戒に関し、各倶楽部に通達。競技は技術本位心身鍛錬を目的とするものに限られ、賞品を与えないこととし、私的競技、団体競技(アマチュア、プロの東西対抗)の開催は全廃された。
贅沢禁制として飲食の質素化、派手な服装、自家用車の使用を慎しむこともこの通達に含まれた。 |
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9月16日〜20日 |
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日本プロ選手権が福岡・大保コースで行われ、戸田藤一郎が勝つ。
この選手権の3日目は故北白川永久王殿下の喪儀のため中断された。
◇加盟倶楽部は45。 |
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5月8日〜10日 |
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戦前最後の第14回日本オープン選手権が程ケ谷カントリー倶楽部で開催され延原徳春(現・延徳春…当時は日本名を名乗っていた)が優勝し、カップは京城(ソウル)に渡った。このカップは大谷光明のアイディアで、正倉院御物の周の卦山炉にヒントを得て作られたもので、海を渡った後、行方不明に。
アマチュア東西対抗、日本プロ選手権開かれず。
※太平洋戦争勃発 (12月8日)。 |
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12月13日 |
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昭和17年度のJGA主催各競技の開催は当分見合わせるとして各倶楽部に通知書を発送。 |
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2月26日 |
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キャディ廃止を各倶楽部に通達。60歳以上の高齢者は例外とした。
※大日本体育会の発足(4月8日)。
スポーツの統括機関として総本山的な存在だった日本体育協会(現・公益財団法人日本体育協会)は、戦局厳しい情勢となり、政府によって加盟全体がすべて解消され、ゴルフ協会はその外郭団体「大日本体育会」に統合されることになった。
しかし、国民の体位向上、皇国民の錬成が会の目的だったため、当時まだ一部の階層の遊びでしかなかつたゴルフは、存続の危機に直面した。日本ゴルフ協会の理事長だった石井光次郎は、ゴルフを残す方策として、かつて見た文化映画の「奈良朝の打毬」を思い出し、ゴルフは日本古来の遊戯を復活したものだ、と力説して部会入りを成功させてゴルフ抹殺の危機を救った。 |
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12月13日 |
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昭和17年度のJGA主催各競技の開催は当分見合わせるとして各倶楽部に通知書を発送。 |
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8月26日〜29日 |
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日本専門選手権(日本プロ選手権、小金井CC)に陳清水が優勝。 |
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9月12日 |
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日本ゴルフ協会は臨時総会を開催し、10月7日の解散を決議。
大日本体育会の打球部会として発足し、部会長に井上匡四郎が就任し、日本ゴルフ協会の事業は打球部会に引き継がれた。
日本ゴルフ協会は解散に当たり、各加盟倶楽部に対して、これまでの事業の協力に感謝し、記念品と感謝状を贈った。 |
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10月21日〜24日 |
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日本アマチュア選手権が川奈ホテルゴルフ場で開かれ、成宮喜兵衛が優勝。戦前に開催された最後の日本選手権競技となる。
◇JGA解散時の加盟倶楽部数59。
全国ゴルフ場数(昭和16年度末) |
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地区 |
JGA加盟 |
加盟外 |
計 |
関東 |
21 |
11 |
32 |
関西 |
17 |
11 |
28 |
九州 |
5 |
2 |
7 |
北海道 |
5 |
1 |
6 |
朝鮮 |
4 |
1 |
5 |
台湾 |
4 |
3 |
7 |
満洲 |
3 |
5 |
8 |
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※打球部会より大日本体育会の錬成部にあてた同年の事業計画(1月21日)。
・関東、関西打球対抗(アマ東西対抗)
茨木・6月1日
・日本打球選手権競技会(日本アマ)
茨木・6月2日〜5日
・関東、関西打球専門選手対抗(プロ東西対抗)
鷹之台・8月31日
・日本打球専門選手権(日本プロ)
鷹之台・9月1日〜4日
※打球部会理事会において全国大会を行わず、地域大会のみ開催を決定し、
大日本体育会の承認を求めた(4月12日)。
・関東専門選手打球大会(関東プロ)
藤沢・6月7日〜8日
・関東打球大会(関東アマ)
鷹之台打球倶楽部・9月22日〜25日
・関西打球大会(関西アマ)
茨木・10月2日〜4日
・関西専門選手打球大会(関西プロ)
都合により中止
※打球部会宣言(5月)。
井上匡四郎を部会長に発足した大日本体育会・打球部会は常務理事に松尾恒四郎、岸田日出刀、
理事に高畑誠一、一宮房治郎、河北真太郎を選任し、日本的打球の新しい理念と体制との
具現確立を目指した打球部会宣言を行った。 |
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※大日本体育会の各部理事会において、この年度の各部事業は体育会が管理し、
事業を実施しないことを決定した(3月)。
打球大会(競技)開催されず。 |
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※終戦(8月15日)。
※大日本体育会は各部会を解消 (11月12日)。
※大日本体育会は寄附行為の改正を文部、厚生両大臣より認可され、日本体育協会(現・公益財団法人日本体育協会)として再出発した(12月28日)。
日本ゴルフ協会は加盟団体として復帰できたが、施設(ゴルフ場)の復旧が伴わないために活動の再開が遅れた。 |
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5月 |
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日本ゴルフ協会規約公示(体育会会報)されJGAの体育協会復帰は公的なものになる。
※関東プロゴルフ協会創立(10月7日)。
※第1回国民体育大会が開かれる。
夏季大会は宝塚、秋季大会は京都、冬季は八戸(翌年1月)などで開催(8月・11月)。
日本各地でゴルフ場の復旧工事が進む。 |
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※関東プロ選手権が復活。東京ゴルフ倶楽部で開催されたが、これが戦後初のプロ競技になった。
東京ゴルフ倶楽部は当時、米軍朝霞基地の施設として接収されていたが、
米軍の好意によってこの競技の復活が実現した(8月)。 |
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関西ゴルフ連盟が再発足(6月19日)。
関東ゴルフ連盟が再発足(9月1日)。
※関西オープン、関西アマ、関東アマの各選手権が再開される。 |
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9月14日〜15日 |
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日本プロ選手権開催(我孫子ゴルフ倶楽部)。林由郎が優勝。日本ゴルフ協会復活前であったため関東プロゴルフ協会主催、後援関東ゴルフ連盟で「全日本プロ招待競技大会」の名称で開かれた。全国から56人のプロが参加して2日間の日程で行われた。日本ゴルフ協会は後にこの競技を正規の日本プロ選手権と公認した。 |
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11月16日 |
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日本ゴルフ協会の復活。
東京・銀座の交詢社で戦後初のJGAの総会が開催される。
旧打球部会役員、関東、関西両連盟の11倶楽部の代表が出席し、日本ゴルフ協会の復活を決議した。
名称を日本ゴルフ連盟と改称し、理事長に石井光次郎、理事に野村駿吉、藤田欽哉、小寺酉二、中村寅之助、原田立之助、乾豊彦が就任した。
日本ゴルフ連盟は当分の間、旧日本ゴルフ協会規約を準用することにし、ルールは原則として米国新ルールを採用と決定、ボールは英国式の小型球の併用を認めた。
新発足したJGAは昭和25年度の事業として日本アマチュア選手権とアマチュア東西対抗、日本オープン選手権、日本プロ選手権、同東西対抗の各競技の開催を決めた。 |
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