1937年(昭和12年)の日支事変から第2次世界大戦に至る軍事体制は、ゴルフ場に大きな変化をもたらした。そのほとんどが軍事施設地として閉鎖に追い込まれた。その一つに、「武蔵野カンツリー倶楽部」がある。
1920年代初め、関西ではゴルフ場建設が相次ぎ、大衆化へ向けても一歩を踏み出していた。その頃、関東には1923年(大正12年)にオープンした程ヶ谷CCを含めて、根岸、東京の3つのゴルフ場しかなかった。そんな中、“もっと気軽にゴルフがしたい”という中級階級のゴルファーたちが東京・多摩の平山に作ったのが「武蔵野カンツリー倶楽部」である。
これまでのゴルフ場とは異なり、建設費や入会金等の金銭的な面はもちろん、全長2000ヤードの6ホールという規模の面から言っても、実に庶民的なゴルフ場だった。まさに関東におけるゴルフの大衆化に一役買った。
その後、順調に会員が増加し、1926年(大正15年)に千葉県の六実へ移転。同年10月に9ホールが誕生し、翌27年9月に18ホールが完成した。移転当初の会員は、わずか100人だったが、その2年後には700人弱に増加。六実だけでは狭いと、隣接する藤ヶ谷にもう18ホールを拡張した。武蔵野CCは日本で始めて、一つの倶楽部で36ホールを併有したゴルフ場だった。拡張後は、ますますメンバーも増え、1940年(昭和15年)の時点で約1500人。戦前までは日本で最もメンバーを擁するゴルフ場に成長した。
そんな栄えたゴルフ場も、戦争の影響を受けた。六実、藤ヶ谷とも開戦とともに、1944年(昭和19年)陸軍用地として強制徴用を受けて閉鎖。解散を余儀なくされ、そのまま歴史の幕を閉じた。
この他にも、関東随一の美しさと称されていた藤澤カントリー倶楽部や、川崎市小向の多摩川下流の河川敷を利用したチャンピオンシップコースである川崎ゴルフ倶楽部など、約10以上のゴルフ場が戦後復活することなく、消滅した。これらがもし存在し、その伝統や長所を後に引き継ぐことができていたら、現在のゴルフ場の姿も、違っていたかもしれない。 |