2001 JUNE vol.66
 1932年(昭和7年)、ゴルフボールの製造へ着手すべく、英国へ技術者を派遣。帰国後、久留米工場にて研究が開始された。だが、それまでの地下足袋、タイヤに比べ、ゴルフボールには3年もの歳月を要し、ようやく製品が完成。1935年(昭和10年)、第一号の純国産ゴルフボール「BRIDGESTONE SUPER」を発売した。当時のゴルフボールは贈答品として扱われ、ボール一つ一つが油紙に包まれて売られていたという。趣味から始まったゴルフだが、そこにも彼のアイディアが生かされ、商売が成り立ったのである。

 以後、戦争の影響で、製造の禁止を余儀なくされた時代があったものの、終戦直後に試作を再開。そして1950年(昭和25年)に販売を再開した。石橋氏は、ボール製造をそれまでの手作業から機械化へと移行。また、ゴルフボールを科学的に研究することにも着手したが、必ずしも順調に進まなかった。

 この当時、ゴルフボールの売上高は石橋氏経営の全社の1%にも満たなかった。しかし、常に品質、技術、設備の改良に努め、健全なスポーツ用品としての将来性に関心を寄せていたという。

 1952年(昭和27年)には、ゴルフボール製造設備を久留米工場から横浜工場に移動。石橋氏は「ゴルフボールを使うのは社会の指導者たちだから、一級品を作らないと、タイヤの品質まで疑われる」という考えで、品質第一主義でゴルフボール事業に熱を入れた。
 そして、1957年(昭和32年)。おりしも、カナダカップ優勝がきっかけとなったゴルフブームの到来と相まって、月産1万ダースを記録した。

 また同年、厚生施設の一環として、佐賀県鳥栖町にあったブリヂストンサイクル旭工場の剰余敷地9万坪の丘陵地にゴルフコース(ブリヂストンカンツリークラブ)を建設。当初は従業員用だったが、後に一般に開放するようになった。

 ゴルフボールの生産は相変わらずの好調で、1963年(昭和38年)に発売した「イーグル」はその声価を一挙に高めた。石橋氏の手腕によって、いち早くゴルフボールの科学的研究を進めたことが、功を奏した大ヒットであった。

 その後の石橋氏、ブリヂストン、そしてゴルフボール製造を継承するブリヂストンスポーツの活躍は、周知の通りである。彼ほど、時代や物事の先を見る目、予測が長けた人物はいないといっても過言ではない。足袋専業を決意してから、地下足袋、タイヤ、そしてゴルフボール……と、常に将来を、世界を見据え、予測し、すぐに行動に変えてきた結果である。
資料提供・写真協力/ ブリヂストンスポーツ株式会社
参考文献/ 「私の歩み」(石橋正二郎著)、
「回想記」(石橋正二郎著)、
「石橋正二郎」(ブリヂストンタイヤ株式会社発刊)


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