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井上 準之助 Jyunnosuke Inoue (明元.3.25−昭7.2.9) 元JGA会長。 日銀のニューヨーク支店に在勤中、新井領一郎氏にゴルフを教えられ、ゴルフは中年のビジネスマンの健康に最適のスポーツと考え、日本で最初のゴルフ倶楽部(東京ゴルフ倶楽部)を創立した。 |
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井上 信 Shin Inoue (明18.5−昭43.10.4) 日本人として初めて日本アマを制覇 商社員として米国滞在時にゴルフを覚え、帰国後の1918(大正7)年、駒沢での外人中心の日本アマ選手権で日本人として初めて優勝した。 |
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井上 誠一 Seiichi Inoue (明41.8.1−昭56.11.26) ゴルフコース設計家 1930(昭和5)年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のため来日したチャールズ・H・アリソンに接したことで設計家の道に。昭和30年代から日本オープンの開催コース11を含む数多くの名コースを造った。 |
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井上 匡四郎 Tadashiro Inoue (明9−昭34.3.18) 打球部会長 1932(昭和7)年、1933(昭和8)年とJGAのチェアマンを務めた。戦時中のJGA解散などの際にゴルフ界を取りまとめた。元鉄道大臣、技術院総裁、子爵。 |
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上田 治 Osamu Ueda (明40−昭53) ゴルフコース設計家 1930(昭和5)年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コース設計のため来日したチャールズ・H・アリソンの助手を務めて設計技術を学び、設計家として主に関西地区を舞台に活躍した。下関、古賀、広島(八本松)の各コースが代表作である。 |
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大倉 喜七郎 Kishichiro Okura (明15.6.16−昭38.2.2) 川奈ホテルの創設者 英国に留学し、帰国後、父喜八郎の事業を継承して大倉財閥を築く。観光開発とゴルフの普及・発展のために川奈ホテルとゴルフ場を開発。川奈は日本で行われた世界アマ・チーム選手権(1962年)の舞台になった。 |
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大谷 光明 Komyo Otani (明18.4.26−昭36.4.3) ゴルフルールの最高権威者 西本願寺21代門主光尊の三男。英国に留学中にゴルフを覚え、帰国後、日本のゴルフを統括するJGA創立の中心人物だった。難解なルールを研究し邦文化を実現させた「日本のゴルフの父」といわれている。 |
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小笠原 勇八 Yuhachi Ogasawara (明34.3.27−平2) ゴルフ史家、元JGA事務局長 戦前のゴルフ雑誌を振り出しにゴルフのジャーナリスト生活を送る。50年にわたって丹念に日本のゴルフ史を裏づける資料を収集した。JGAの70年史編纂にはこの史料が生かされた。 |
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小野 光一(孫士釣) Koichi Ono (大8.5.19−平12.11.6) カナダカップ優勝 大連の星ヶ浦ゴルフ場でキャディをやっていたが、程ヶ谷カントリー倶楽部の会員、有富光門氏に才能を見出され、程ヶ谷で浅見緑蔵の弟子になり、戦後は中村寅吉と並んで日本を代表するプロになった。カナダカップの優勝で日本のゴルフは海外に知れ渡った。その功労者である。 |
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川崎 肇 Hajime Kawasaki (明17−昭23.1.23) 真のアマチュアゴルファー 1924(大正13)年、日本のアマが海外遠征にでかけたが、そのメンバーの一人。赤星六郎、四郎らとチャイナアマ(上海)で健闘し、1926(大正15)年、3位に入賞している。昭和の初期はアマの第一人者として日本のゴルフ界をリードした。 |
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