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すでに100年を迎えた日本のゴルフ。
ゴルフコースが作られ、倶楽部が創設、そして各倶楽部間の団体が形成されていった。
そして誕生したのが全国的な規模の競技である。
日本オープンが誕生して、これまでに様々なドラマを生み出してきた。
そこで生まれてきた名勝負、各プレーヤー、秘話を紹介したい。
記事:福島 靖
1924(大正13)年、ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(現・日本ゴルフ協会)が設立され、在日外国人の主催していた日本アマチュア選手権を継承した。同時に日本オープン選手権と関東、関西地域対抗競技(アマチュア東西対抗)を創始することを決めた。その準備のため大谷光明は英国に渡って制度を研究(当時はセントアンドルーズのルールを採用)し、アマチュアの参加資格を決めるナショナルハンディキャップの導入をはかった。
全ての準備を終え、第1回日本オープン選手権が開かれたのはJGA創立から2年7ヶ月後の1927(昭和2)年5月であった。
大会の要項は次の通りであった。
時 | 1927(昭和2)年5月28、29日 |
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場所 | 程ヶ谷カントリー倶楽部(横浜)6,170ヤード、パー70 |
参加資格 | アマチュアはナショナルハンディキャップ8まで プロフェッショナルは所属倶楽部のオナラリー・セクレタリーによって推薦された者 |
日程 | 第1日、72ホールストロークプレーの第1、第2各18ホール。 36ホールを終わって、リーディングスコアより20ストローク以上多い者は第2日のプレーの資格を失う。 第2日、第3、第4ラウンド各18ホール。 最小スコアにタイがあった時は即日、もしくは翌日1ラウンド(18ホール)をプレーして優勝を決める。 2位、3位のタイでも、入賞の該当者は、前項通り1ラウンドをプレーして順位を決める。 |
この規定にしたがって参加したのはアマチュア12人、プロ5人だった。
いよいよプレー開始、第1ラウンドは赤星四郎がコースレコード74を出してトップ。2位は79で赤星六郎、浅見緑蔵がタイ。その差5打。
第2ラウンドになると赤星六郎が四郎の作ったコースレコードを破る73を出し、通算152でトップに立った。
2位の浅見は158でその差6打。
前半を終わって第2日のプレーに資格を得た者は僅かに7人であった。技量不揃いの第1回の選手権としては止むを得ない結果だった。
2日目、第3、第4ラウンドは赤星六郎の独走となった。2位の浅見に10打の差をつけて日本オープン史上ただ一回のアマチュア優勝を記録したのだ。
このような経過を辿って第1回の日本オープンは終わった。しかし、現代のゴルフ界には、当時の一般情勢が全く理解されていないので、若干の解説を加える必要がある。ひとつは、優勝した赤星六郎についてである。後年、『アマチュアがプロに勝った』と書き伝えられるようになったが、六郎にとってこの優勝は自慢でも誇りでもなかった。
アマがプロを育てた時代である。六郎とプロとの差は大先生と生徒の関係にあった。先生が勝って当たり前だ。六郎はそれから10年、ゴルフ誌の編集顧問を務めたが、編集者とは一度も日本オープン優勝の話を交わしていない。聞き質すことがむしろ非礼と思われた、と伝えられている。
当時、関西の大毎プロ・トーナメントに出ていた福井覚治、越道政吉、村上伝二、柏木健一らは第1回の日本オープンに参加していない。『お前達はまだ未熟。日本オープンに出るだけの腕がない』と倶楽部のセクレタリーは、アマチュアの赤星兄弟の腕を知って推薦しなかった。なにせ宮本留吉(茨木)が320を叩く時代だ。エントリーしなかったのは当たり前のことだっただろう。
第2回日本オープン選手権は、1928(昭和3)年5月26、27日の両日、東京ゴルフ倶楽部(駒沢)で開かれ、浅見緑蔵(程ヶ谷)が優勝した。コースは6,160ヤード、パー73。参加者の顔ぶれは赤星六郎は不参加だが、赤星四郎、川崎肇という優勝を争うトップクラスのプレーヤーが出場し、プロは浅見、安田幸吉、宮本留吉は連続出場し、越道政吉、石角武夫、福井覚治、大木鏡三が新たに参加した。
大毎トーナメントに出た森岡二郎、村上伝二、柏木健一、村木章、大西義雄、前田健三、寺本善吉らは所属倶楽部の推薦を得られず不参加。まだプロの大部分はアマチュアと戦うだけの資格も実力もなかった。
こうした情勢から、参加者は14人(アマ7人、プロ7人)と第1回を下回ったが、赤星四郎と浅見緑蔵の優勝争いになった。
第1ラウンド、赤星四郎は75で前年同様トップに躍り出た。2位は3打差で浅見、アマチュアの川崎は81で宮本と4位タイで目を引いた。
第2ラウンドに入って浅見が赤星を抜き151でトップに立ち、川崎は安田と並んで159で3位タイになって後半戦を面白くした。
第3ラウンド、浅見は229で依然トップ。赤星は4打差の223で浅見を追った。見物人は赤星の奮起を期待した。しかし、浅見は第4ラウンドでこの年のベストスコア72を出して2位の安田に7打の差をつけて逃げ切り優勝を果たした。
こうして第2回のオープンはプロの初優勝に終わったが、もし、赤星六郎が出場していれば、情勢はどうなっていたか分からない。六郎より実力は乏しかった四郎が優勝争いに加わっている成績から判断すると、六郎の2連覇の確立は相当高かったはずだ。
六郎欠場の理由はコース設計家を志していたのでアメリカに渡って技術を履修中だった。六郎にとってはオープンに出るより、本業が大切だったのだ。
この第2回大会では最終日、観戦された朝香宮鳩彦殿下が優勝杯を浅見に直接手渡された。オープン史上、宮殿下がカップを授与された例はこの大会以外にない。殿下はこの大会を迎えた東京ゴルフ倶楽部のプレジデント。そのお立場からなされたことであった。
1960(昭和35)年の日本オープンにおける陳清波のスコア誤記失格による気の毒な出来事だった。この大会を1位で終了した陳清波はスコア記入のミスから一瞬にして優勝を逃したのである。陳はトータル292で2位の小針春芳(那須)に2打差。堂々の2連覇だった。ところがスコアボードを眺めていた報道関係者から『第4ラウンドの11番(パー4)で陳は5を叩いているのに4と出ている。間違いではないか』という声がでた。
すぐに競技委員は陳とマーカーの小野光一を呼んで事実を確かめた。すると『間違いでした』と2人はあやまった。
規則により陳は失格。小針の繰り上げ優勝になった。
関係者は11番でボギーでも勝てたのに、と同情したが『ボーっとしていてスコア違いに気がつきませんでした。でも1位のスコアを出せたので満足です』と無念さを耐えていた。
競技委員長の小寺酉二氏は『アメリカの女子プロ選手権でも同じようなケースがあった。1位のジャッキー・プンがスコア誤記で失格した。同情金を出す人が多く、賞金よりも多かったという。くさらずに頑張れ』と激励した。
1932(昭和7)年の日本オープンは10月8、9日の両日、茨木カンツリー倶楽部で行われた。大会直前の日本プロ選手権に優勝したラリー・モンテスの存在が注目された。これに対して1931年の国内選手権の新体制によって力をつけてきた日本のプロ陣がモンテスをどう迎え撃つのか。これまでにない緊迫した情勢で幕が開いた。参加者は54人(アマ25人、プロ29人)。オープン史上初めてというドラマが展開されて宮本留吉が優勝した。
第1ラウンドは村木章、浅見緑蔵が73でトップ。74で安田幸吉、林萬福が3位タイ。アマは赤星四郎が76で5位タイ。77で8位タイに鍋島直泰がつけた。期待のモンテスは79を叩いて18位タイ。早々と優勝争いから脱落した。
第2ラウンドは依然、村木が首位を堅持、安田がこれに並んだ。アマは鍋島がコースレコードの73を出して単独4位に躍進した。
2ラウンド目を終わって首位より20ストローク差のものをカットし、アマの3人(鍋島、成宮、赤星)、プロ23人が後半戦に進んだ。
第3ラウンドでも村木の首位は変わらず、優勝が決まったかに見えた。ところが最終ラウンドで大異変が起こった。村木は5、6、7番でスコアを崩してアウトで41を叩いた。これを追った宮本は36。最終ラウンドで差は6打あったが、ここで1打差に詰めた。
最終の9ホールで村木は36にまとめ、通算299。応援の宝塚GCの会員は宮本に先行して上がってきた村木のスコアに満足して優勝の祝杯をあげた。
その頃、宮本は15番で村木のスコアと並び、16番をプレー中だった。残る3ホール中、一回でもバーディを出せば宮本優勝というチャンスである。16番は360ヤード、パー4。宮本は10に1つというむずかしいロングパットを入れてバーディを取って村木を振り切り、残る2ホールでパーを取り、1打差の逆転優勝をとげたのである。
この年の日本オープンのもう一つのハイライトはアマの鍋島直泰が通算309で7位タイに入ったことであった。
鍋島は25歳の新人。アマチュアのホープ。鍋島の日本オープン最高位への挑戦はここから始まった。
1935(昭和10)年の日本オープンは数字以外に歴史的な記録がある。
優勝スコアが300を切るかどうかは、この年のU.S.オープン(オークモント)で300を切ったのは僅かに1人(サム・パークス)。グリーンが朝霞に似ていたことから生まれた話題だった。ここでゴルフ誌(月刊ゴルフ)はアマチュア、プロそれぞれの代表的な人物にこの話題についてアンケートを求めた。
回答者20人は4〜6割で『切る』と回答してきた。
答えはその通りで優勝スコアは296だった。赤星六郎は『295』と予想した。宮本本人は『300を切るのは難しい。まず300くらいだ』と答えている。
朝霞コースの設計について大谷光明はアリソンのプランを次のように詳しく説いた。
『18ホールのうち、6ホールのグリーンは深き数尺の砂壕を担って防禦された島嶼グリーン。6ホールは一方のみ僅かに通路を有する岬(ごう)角グリーン。残る6ホールのみが、ようやく第2打で前方に落下せしめた球を、グリーンに馳せ登らせ得るに過ぎない難コース』(原文のまま)
結局、優勝は渡米グループの勝利になったので、アメリカ遠征の効果と評価された。鍋島は宮本のゴルフについて『宮本はまだまだ進歩する。彼の存在は日本ゴルフ界を心強くさせる』と期待をかけた。 大御所の大谷光明は『3日間、秋晴れ、コースよし、参加者よし。ゴルフの豪華版として、これ以上のものを求むるは現在の日本では不可能だ。ゴルフ芸術の築く最高の殿堂だ。300を越える観衆も日本オープンの新記録だ』と総括した。
1993年(平成5)年の日本オープン(琵琶湖・栗東)でアマチュアの片山晋呉(つくばね・現在はプロ)が通算287で3位タイに入賞した。
これは1928(昭和3)年に赤星四郎が3位タイに入って以来の大記録だった。数えて65年ぶりの快挙だった。
第1回大会はアマの赤星六郎が勝っているが、以来、日本オープンはアマにとっては征服し難いものになってしまった。
そこでアマの奮起を促すために、大谷光明氏(日本ゴルフ協会チェアマン)は『賞牌』を作り、3位以内に入賞したアマに与えることにしていた。しかし、その後該当するアマが出ないまま、戦時中、賞牌はどこかへ消えてしまった。
この片山の快挙は賞牌を手中にするには十分な成績だった。もし、日本のゴルフの父といわれた大谷氏がご存命なら、片山になんと声をかけて、賞牌を渡しただろうか。
1940(昭和15)年の日本オープン選手権は5月28日〜30日の3日間、東京ゴルフ倶楽部(朝霞・6,700ヤード、パー74)で行われた。参加者は年ごとに拡大される戦時下の影響にもかかわらず、67人で前年と同じだった。優勝を狙う最右翼は宮本留吉、陳清水、林萬福、戸田藤一郎ら。これに浅見緑蔵、延原徳春がどこまで詰められるかに興味が持たれた。
アマは原田盛治(東大)、久保田瑞穂(明大)は、前年度(1937年)10位タイだったが、スコアの上では5位の森岡二郎に4打の差。上昇一方の二学生にとってはベスト5入りも可能と予想された。
しかし、参加申し込みの締め切り直前、石井光次郎・日本ゴルフ協会理事長は全日本学生連盟の小寺酉二会長に逢い、『参加禁止は出来ないが、時局柄、自発的に申込みをしないということにしてもらいたい』と申し入れた。このために原田、久保田の参加は実現しなかった。
第1ラウンドは前年の優勝者、戸田藤一郎が4アンダーパーの70でリードした。もし、15番でミスパットがなく、18番のイーグルチャンスを生かすことが出来ていたら、68のスコアも期待できた。それほど戸田のゴルフは素晴らしかった。これに島村祐正、小谷金考(茨木)、上堅岩一(大阪)、小池国喜代(霞ヶ関)らが続いたが、戸田にとっては雑兵に等しかった。それよりも最大のライバルは宮本だった。その強敵は4打差で8位タイにいた。
第2ラウンド、宮本は猛然とスパートをかけた。6アンダーの68というコースレコードを出して首位の戸田と142で並んだ。68の内容は37・31。11番から3ホール連続バーディを取り、15番で四つ目のバーディ。18番の500ヤード、パー5ではイーグル。まさに天を飛ぶようなプレーをみせた。
第3ラウンドを終わって依然として戸田、宮本は同点首位。最終ラウンドに総ては持ち込まれた。
宮本はここで勝負に出た。2、3、4番の3ホールでバーディ。宮本のダッシュに戸田は動揺した。同じホールをパー、ボギー、パー。僅か3ホールであっという間に4打離された。その後、戸田は懸命に追いかけたが、追いつけず、宮本はオープン6回優勝という大記録を作ったのである。通算285(11アンダーパー)は5年前、宮本が同じ朝霞で優勝した時の296を11ストローク縮めたものだった。この数字は日本のプロの進歩を示すものと高い評価を得た。
アマは最強の原田、久保田が不参加だったので、プロの牙城を脅かすところまではいかなかったが、成宮喜兵衛の21位タイが最高。佐藤儀一は25位だった。
1941(昭和16)年、戦前の日本オープン最後の年である。戦線の拡大に伴ってゴルフの自粛、JGA主催の5競技のうち、アマチュアとプロの東西対抗は中止。日本オープン、日本アマ、日本プロの三選手権だけが続行された。この年の日本オープンは5月8日から3日間、程ヶ谷カントリー倶楽部(6,667ヤード、パー72)に73人(アマ24人、プロ49人)が参加して挙行された。
第1ラウンドは初参加の小針春芳(20歳、那須)が飛び出して行田虎夫(茨木)が71で並び、2打差で延原徳春、岩倉末吉、小池国喜代が続いた。
第2ラウンド、小針は77を叩いて脱落、68のコースレコードを出した中村寅吉と延原、行田、岩倉が首位に並んだ。
第3ラウンド、延原が手堅いプレーを展開して単独首位に立ち、これに中村、宮本が続いた。
最終ラウンドは宮本が2番でOBを出して圏外に去り、延原、中村の争いになった。延原の快調なゴルフに対して中村はミスパットが多く、前日の3打差は詰まらないまま延原の優勝が決まった。これで伝統の日本オープントロフィーは玄界灘を渡り京城に持ち去られた。延原の優勝を人一倍喜んだのは富野繁一氏(当時、朝鮮ゴルフ連盟常務理事)だった。延原を献身的に世話をした人で、2連覇の夢を延原に託していた。優勝した延原は朝鮮籍だったが、朝鮮総督府の命令で、1940年以降、日本姓を名乗らされていた。 アマは三好徳行の28位タイが最高だった。延原の近況は元気で時折クラブを振っているという。
1959(昭和34)年の日本オープン選手権は7,255ヤード、パー74の相模原ゴルフクラブ東コースで行われた。参加者は137人(アマ48人、プロ89人)
第1ラウンドは新鋭プロ2年目の鑑田茂(相模、元・呉羽カントリークラブ)が5アンダーパーの69でリード。
第2ラウンド、鑑田は2打の差で2位にふんばった。
第3ラウンドで中村寅吉が追い上げて島村と並んだ。第2ラウンドでトップに9打差、14位タイにいた陳清波がこの非、5位タイに進出した。トップから4打遅れていた。最終ラウンドで島村はアウトが37。これに対して陳は34と1打差に迫り、最後の3ホールがヤマになった。
16番で島村は短いパットを逃して同点になり、プレーオフにもつれ込んだ。日本オープン始まって以来の初めてのプレーオフとなり、翌10月1日、18ホールストロークプレーで勝者を決めるというのは18ホールを単位とするゴルフのストロークプレーの原則で、米国はいまもなお、この制度を変えていない。日本オープンのプレーオフ18ホールの制度はこれが最後で、便利、商業主義に押されて、現在はサドンデスに変わってしまった。陳、島村のプレーオフは簡単に終わった。陳73、島村78。島村の45歳に対して陳は28歳。若さの勝利だった。しかも、この日は陳の誕生日。二重の喜びをかみしめていた。
1956(昭和31)年の日本オープンは9月18日より3日間、霞ヶ関カンツリー倶楽部(西コース)で行われ、史上最高の参加者があった。この年の大会は日本オープン史に、一つの変革をもたらした歴史的なものだった。日本ゴルフ協会が国際担当理事・野村駿吉氏の企画で日本オープンを国際的なものにするために外国人の参加を積極的に呼びかけた。
アメリカのプロは賞金額その他の理由で不可能だったが、ハワイ、フィリピン、台湾のプロたちに招待状を送った(滞在費を負担)。
賞金額を倍増し、優勝は25万円を50万円にした。ハワイ、台湾などから5人が来日。これらの招待選手のために9月14日、高輪のホテルでカクテルパーティを開いた。
緑の野外で初秋のにぎやかな交歓風景が繰り広げられたが、日本オープン史上たった一度の国際行事として忘れ難い催しだった。
写真提供/(一社)東京ゴルフ倶楽部