相原が初めてゴルフに出会ったのは、小学校3年生の時。「母親と姉の3人で芋掘りの農作業をしていたんです。すると通りかかった霞ヶ関カンツリー倶楽部の従業員の人に“そこの小さいの、ちょっと手伝え! キャディが足りなくて困っているんだ”と言われ、ゴルフ場に連れていかれたのが最初です」。
もちろん、ゴルフなど全く知らない相原は何をしていいか分からない。そのうちホロのかかったトラックがゴルフ場に付き、そこからたくさんのアメリカ兵が降りて来た。
「いいか、小さいの。相手は外国人なんだから言葉なんて分からなくていい。このゴルフバッグを担いで、自分の付いた外国人さんの後をしっかり付いていくんだ。ただ外国人さんが打ったボールだけはしっかり見ておけよ。ボールがなくなったらお前の責任になるからな」とズック地のキャディバッグを渡された。その中には七本のクラブが入っていた。
相原は言う。
「とにかく子供でしたから、言われるままに外国人さんの後をひたすら付いていきました。言葉が全く分からないので、気が付いたらトイレだったこともありました」と笑う。しかし「農作業で慣れていたので、キャディバッグの重さと歩くことは全く辛くなかったですね。足腰が自然に鍛えられていたんですよ。昔の農家の子供はみんなそうでしたけどね」と相原は言う。
「何故練習ラウンドの朝、ピン位置を確認してきたのかですか!?
それは訓辞があったんです。カナダカップの前に研修がありました。その内容はそれまで私たちがキャディとしていつもやっていたこととあまり変わらなかったのですが、ひとつだけ違ったことがあったんです」と相原。その内容を簡単に説明すると「キャディは選手と一心同体。自分の付いた選手の打った球にぶつかったり、拾い上げたりしただけで選手は罰打を受ける。同様にキャディの出来不出来が選手のスコアに直結する。とにかく日本のキャディが馬鹿にされないように、慎重に、精一杯頑張って務めるように」という内容の訓辞だった。
「キャディは選手と一心同体という言葉が心に染みたんです。そして自分が母国を代表して異国のコースで戦う選手だったらコースの何をキャディに聞きたいか考えてみたんです。もちろんだいたいのピンの位置はラウンド前に知らされましたが、それだけではピン位置が傾斜の上なのか下なのか毎日キャディをしている私にも分かりづらい。
そこで自分の目で確かめて選手に伝えようと思ったんです」とまるで1957年のカナダカップ練習ラウンド前日にタイムスリップしたように相原は遠くを見つめながら語ってくれた。余談ながら、必ず姿勢を正し、インタビュアの目をしっかり見つめて受け答えし続けていた相原が、視線を外して語ったのはこの時だけだった。そしてゆっくりと視線を戻し相原は自分の言葉を噛みしめるように続けた。 |