2001 MARCH vol.65
 ゴルフ発祥地であるスコットランド。そこでゴルフを楽しんだ人々は、その魅力を諸外国に広めた。今年、100周年を迎えた日本も例外ではない。日本初のゴルフ場も英国人の手によって誕生したのである。

 1901年(明治34年)、神戸・六甲山に4ホールのゴルフ場を開場した「日本ゴルフの開祖」と呼ばれる英国人のアーサー・ヘスケス・グルーム。この名前は今年、幾度となく耳にしている人も多いだろう。

 だが、もう一人、日本のゴルフの発展に力を注いだ英国人がいる。その名前は、ウィリアム・ジョン・ロビンソン。グルームよりも6歳若く、来日して神戸で貿易業をしていたロビンソンは、無類のゴルフ好きで、神戸GCの創立時には喜んでグルームに協力したという。

 そんな彼が、どうしても許せなかったこと。それは、神戸GCが12月から3月までの4カ月間、冬季期間中にクローズすることだった。そこで、なんとか一年を通してプレーしたいと、ほとんど一人の力でつくったのが、日本で2番目のゴルフ場「横屋ゴルフ・アソシエーション」なのである。

 1904年(明治37年)、この横屋コースは6ホールでオープンした。ロビンソンは、コース建設の際からコース近所の農家・福井藤太郎に、今でいうグリーンキーパーの仕事をさせていた。また、オープンすると、この福井宅の座敷がクラブハウス代わりとなった。とはいえ、メンバーの大半は外国人。靴を履いたまま畳に上がってしまい、注意しようにも英語が話せなかった福井は諦めて、そのままにしてしまったというエピソードが残っている。
 このように、ロビンソンが福井家を巻き込むようにスタートした横屋コース。藤太郎の当時12才だった次男・覚治もキャディを務めていた。ロビンソンは、覚治少年を専属キャディとし、熱心にゴルフを教えた。
 この覚治少年こそが、のちに日本初のプロゴルファーとなる福井覚治。つまり、ロビンソンは日本で2番目のゴルフ場である横屋コースを創立しただけではなく、日本初のプロゴルファーを育てた人物でもあるのだ。

 その後、1913年(大正2年)、土地の買収問題で、あえなく横屋コースは解散に追い込まれる。ロビンソンは翌年、当時横浜正金銀行の神戸支店長だった安倍成嘉の協力を得て、鳴尾に新たなゴルフ場「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」を建設する。さらに、ロビンソンは、横屋のキャディマスターまでに成長していた福井覚治を、鳴尾に呼び寄せた。

 だが、運命はまたロビンソンを、窮地に追い込んだ。土地を所有していた鈴木商店が、この土地を利用して工場を拡張することになり、悲運にも鳴尾コースは閉鎖されたのだった。

 晩年ロビンソンは、神戸市内に住居を構えた。その庭には160ヤードほどのホールを作り、訪れる人たちに「好きなだけどうぞ」とプレーを勧めていたという。残念ながら、2つのゴルフ場は閉鎖してしまったが、最後に自分だけのゴルフ場を手に入れることができたのである。


Back

Next
閉じる