「戦後は、物資がなにもない時代。ボールもクラブもありません。幸いなことに私の場合は、兄がアメリカにいた関係で、その時の知り合いからクラブやボールを手に入れることができました」(近衞氏)。
終戦後、他のスポーツがプレーされるまでには時間がかかった中、ゴルフの場合は在日米軍の将兵やその家族らがゴルフ場を復旧させてプレーを楽しんでいたため、思いのほか早く復活することができた。
アマチュアの競技が復活したのは、1950年のこと。この頃の競技史をみると、近衞氏の名前が頻繁に登場している。東西対抗にはこの年から63年までの14大会、関東チームの一員として出場。日本アマはこの年から7大会連続、日本オープンにも56年、59年と出場している。
「エブラハムが優勝した51年の日本アマ。ベスト4に残ったのは日本人では私一人でした。準決勝でエブラハムに負けてしまったんですよ。会場は相模だったのですが、9番ホールをプレーしていると、グリーン周りでコースキャディたちがプレー観戦していた。すると、エブラハムが1メートルぐらいのパットを外した。それを見ていたキャディたちが“キャー”と歓声を上げて喜んでしまったんです。いやー、私は、なんとも言えない気持ちになりましたね。あまり英語も得意なほうじゃないし、エブラハムになんて言っていいか分かりませんでした……。みんな観戦のマナーを知らない頃だったのですね」と、当時の思い出を語ってくれた。
そして1953年、もう一人の伝説のアマチュアゴルファーが日本アマ初制覇を果たす。三好徳行氏である。彼もまた、鍋島氏、佐藤氏に続き日本人史上3人目の日本アマ3連覇を達成した人物である。独自のセットアップから繰りだすショットは、いつでもターゲットを捕え、“機械ゴルフ”と異名をとったほどの人物だった。
「キャディがキャディバッグからクラブを抜き、クラブを受け取った瞬間から、スイングのタイミングに入っていると、おっしゃっていましたね。この一連の動き、間がすべて“スイング”だというのです。戦前、佐藤儀一さんが“今の若いゴルファーの中で、誰が上手くなりますかね”と尋ねられた時、“三好くんじゃないかな”と答えたそうです。“三好くんは球の重みを分かっている人だよ”ともおっしゃったそうです。佐藤さんにしてみれば、三好さんのゴルフのタイプが一番自分に似ていると感じたのではないでしょうか」(近衞氏)。
だが、三好氏が日本アマを初制覇した53年の日本オープンは、アマチュアはだれ一人後半のラウンドに残れないという結果に終ってしまう。プロたちは、海外遠征、米国プロたちとの親善試合、またプロ競技の創設などによって、飛躍的な技術の向上がはかられたのだ。それによって、アマチュアが太刀打ちできない成長を遂げたことが証明されたのが、この年の日本オープンだったのである。そしてこの4年後、中村寅吉、小野光一の両プロが出場した第5回カナダカップによって、日本のゴルフが世界に知れ渡った。もはや当時のプロの技術は世界レベルに達していたのである。
第1回の赤星六郎氏から26年間、次々と誕生した伝説のアマチュアゴルファーたちは、プロと互角に戦い、プロ以上のカリスマ性を兼ね備え、美しく華麗にプレーしていた。そこには、現在のような、“プロの予備軍としてのトップアマ”的な考え方は微塵も見えない。
近衞氏の思い出話を証言として、今回紹介した古き良き時代のアマチュアゴルファーたち。時代は移り変わり、アマチュアゴルファーを取り巻く環境も当時と現在とは全く違っている。今一度、彼らのようなアマチュアゴルファーを何人も輩出することは皆無に近いだろう。だからこそ、我々現代を生きるゴルファーたちは、戦争が相次ぐ不安定な時代の中で、華麗に悠然と、ゴルフに、競技にと魂を注いだ彼らの伝説を次の100年まで語り次ぐ必要があるのではないだろうか。 |