このようにプロゴルファーとして生活する場を自らの手で作り上げて行った当時のプロゴルファーたち。だから「お客さんと自分の所属するゴルフ場を大切にしなくては自分の存在がなくなってしまうのです。本当にありがたかったですね。あの当時快く協力してくれたアマチュアプレーヤーとゴルフ場がなければ、私や私の仲間の存在はありませんでした」と林は改めて感謝の思いを込めて少し沈黙してしまった。
「そうそう、その後自分たちの競技を見せてお金を集められないかという話が持ち上がり、今でいうギャラリー券を売り出したんです。最初の試合が月例だったかどうかは覚えていませんが、特定のお客さんに大金を出してもらうだけでなく、プレーを見せて多くの人から安いお金をいただければ、試合数も増やせるというのが発案のきっかけだったのです」と林はいう。もちろんギャラリー券の販売は、すべて出場選手が行っている。
戦後初の日本オープンが1950年に開催され、少しずつではあるがゴルフ界も落ち着きを見せ始めた頃、当時の林たちにはまさに耳を疑うビッグニュースが飛び込んできたのである。1953年、“ワンパット10万円のスリル”のキャッチフレーズで有名な賞金総額100万円、優勝賞金30万円の読売プロゴルフ選手権(現・アジアパシフィックオープン)開催というニュースだった。
「賞金額の高さにも驚き胸躍りましたが、それより何より自分たちで賞金を集めなくていいことに戸惑いに似た喜びを感じました」と林は当時のカルチャーショックにも似た感動を口にする。この試合で林は優勝し、現在の住まいを手に入れたのである。 |