2003 JANUARY vol.72
 新田照香さんは、開催コースとなった下関ゴルフ倶楽部の総務部で働くベテラン社員。10年前に開催された日本オープンを経験している、数少ないスタッフの一人だ。
「今は全国で日本オープンが開催されていますが、10年前は九州方面で開催されることがあまりありませんでした。だから1991年に日本オープンの開催が決まった時は本当に嬉しかったです。そして今回、再び日本オープンの舞台に選ばれたことは、このゴルフ場で働く私にとって誇りです」。

 新田さんは1977年の入社以来、今日に至るまで「心からの感謝」を忘れずに、接客に努めている。日本オープンの開催期間中も、そのポリシーは変わらない。
「私はクラブハウスでの仕事がメインなので、温かい心で選手やお客様に接しました。日本オープンはやっぱり日本で一番大きな大会。選手や関係者は普段よりすごく神経を使っていると思います。特にゴルフは神経を使うスポーツなので、少しでも安心できるような環境を作ることを心がけました」。
選手や関係者が安心する雰囲気を作るコツは“挨拶を忘れず、笑顔を絶やさず”。「当たり前のことだけど、実は一番大切なこと」と新田さんは言う。
「日本オープンの期間中は、無線機を肌身離さず持っていなければならないほど忙しい。それでも10年前と比べて、今回はボランティアの人がすごくたくさん集まってくれたのでとても助かりました。そうやってみんなで協力して作った日本オープンは、何物にも代え難い思い出になりました」。
 ゴルフ競技の運営において、今やボランティアの存在は欠かせないものになりつつある。2002年の日本オープンでも、延べ700人のボランティアが競技の運営を支えた。その中の一人、地元・下関在住の内田修さんは、練習場に置かれていたボランティア募集用紙を見て、日本オープンのボランティアに参加することを決めた。
「10年ぶりに下関で開催されるということで決心しました。しかも競技はナショナルオープン。選手の顔ぶれも豪華だし、なにより選手のモチベーションも高いでしょうから、間近でその迫力を見てみたかったんです」。

 内田さんが担当した仕事は、ボランティア本部でボランティアの配置や時間割を確認すること。選手と直接接する仕事ではなかったが、それでも十分にボランティアの醍醐味を味わうことができた。
「今まで日本オープンはテレビで見るだけのものでしたが『運営する側』に立ってみると、選手が身近に感じられるし、権威のある日本オープンでさえ親しみが持てました。2003年の日本オープンはテレビで見る予定ですが、これまでとは見方が全然変わるでしょうね。『俺もあそこで働いたなぁ』って(笑)。ちょっとした優越感ですね」。

 ボランティアの魅力はそれだけではない。仕事を通じて、見ず知らずの人とでも仲良くなることができる。内田さんも、同じ仕事を担当した山野克美さんと親睦を深めることができた。
「『お祭り』というとちょっと語弊があるかもしれませんが、とにかく日本オープンほどのメジャーな競技は、地元で滅多に開催されない一大イベント。ここぞとばかりに一致団結できました」(山野さん)。

 二人は今度、プライベートで一緒にラウンドする約束をしたそうだ。
「その時はボランティアに配給された、日本オープン開催記念のキャップをかぶります(笑)」と内田さんは嬉しそうに語ってくれた。
 駿台甲府高校(山梨県)3年の中島徹選手は厳しい予選を勝ち抜き、初めて日本オープンの舞台に立った。出場が決まった時の喜びを、中島選手はこう振り返る。
「ジュニアの競技に出始めたころから、いつかは日本オープンに出場したいと思っていました。2002年の日本アマで、あと一つ勝てば日本オープンに出場できるというところで負けてしまって……。どうしても諦めきれなかったので、予選に出場したら通過することができました。自分にとって日本オープンは夢のまた夢でしたから、最高に嬉しかったです」。

 しかし、日本オープンの壁は厚かった。中島選手は1日目、2日目を終えてトータル13オーバーパー108位タイでフィニッシュ。予選を通過することはできなかった。
「距離も長いし、狙いどころも絞られてました。コースのセッティングが厳しいうえ、周りの選手の技術も違う。今の自分のレベルでは、いかにしてパーを取るかで精一杯でしたね。でもすごくいい勉強になりました」。

 やっとの思いで登りつめた舞台は、想像以上に厳しい場所だった。だからこそ、チャレンジする甲斐がある。
「日本オープンというでかい目標があるから、他のアマチュア競技もがんばれる。僕にとって日本オープンは、やはりなくてはならない存在なんです」。

 中島選手は、もう次の日本オープンを目指して歩き始めている。


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