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赤星 四郎 Shiro Akaboshi (明28.5−昭46.5.5) 日本アマ優勝者、コース設計家 ペンシルベニア大学ではアメリカンフットボールの選手。後にゴルフを始め、努力を重ねて日本アマを制した努力家。晩年はコース設計に乗り出し、いまの程ケ谷カントリー倶楽部などを手がけた。 |
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赤星 六郎 Rokuro Akaboshi (明31.10−昭19.3.25) 日本オープン初代チャンピオン 第1回日本オープンでプロを押さえて優勝した唯一のアマチュア。草創期の日本のプロを指導しゴルフ界に近代ゴルフの礎を築いたゴルフ界の大功労者。プリンストン大学留学中、1924(大正13)年パインハーストスプリングトーナメントに優勝。 |
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浅野 良三 Ryozo Asano (明22.8.28−昭40) 元JGAコミッティ 1924(大正13)年創立のJGAの実行委員として協会の基礎固めに尽力した。ハーバード大学を卒業してからゴルフを覚え、関東ゴルフ連盟の創立にも貢献した。 |
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浅見 緑蔵 Rokuzo Asami (明41.8.20−昭59.6.19) 日本プロゴルフ協会2代目理事長 程ケ谷カントリー倶楽部出身のプロで、赤星六郎に才能を見出された草創期のプロ。日本オープン、日本プロに優勝。昭和の初期、米本土のウインターサーキットで活躍した。 |
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新井 領一郎 Ryoichiro Arai (安政2.7.19−昭14.4.9) ニューヨーク在住の生糸の貿易商で、多くの日本人にゴルフを勧めた日本ゴルフ界の先駆者 日本の生糸貿易の先達。滞米63年の間にゴルフを覚え、たびたび帰国しては友人知人にゴルフを勧めた先覚者。 |
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チャールズ・H・アリソン Charles Hugh Alison (明15−昭27) 英国のコース設計家 当初は庭園の設計の道を志したが、緻密な計算が性にあわないことからコルトの勧めでゴルフコース設計に転向し、東京ゴルフ倶楽部の招請で来日。東京ゴルフ倶楽部(朝霞)を始め、川奈、広野、霞ヶ関などの各コースを手がけた。独特の深いバンカーのことをアリソンバンカーと称しているが、アリソンの手法に倣って造られた深い、大きいバンカーの代名詞になっている。 |
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安西 浩 Hiroshi Anzai (明34.10.6−平2.4.12) 元JGA会長 元JGA会長。1971(昭和46)年、石井光次郎氏の後任としてJGAの会長に就任。この年から日本女子オープン選手権をJGAで開催するようになった。その第1回大会は安西氏が理事長を務める大利根カントリークラブで行われた。 |
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石井 光次郎 Mitsujiro Ishii (明22.8.18−昭56.9.20) 元JGA会長衆議院議長 戦時中1942(昭和17)年、ゴルフは統制を受けて禁止されかかった。時のJGA理事長だった石井氏は『ゴルフは日本古来の遊戯だ』と力説して存続に成功させた。戦後はJGA会長、日本体育協会(現・公益財団法人日本体育協会)会長として日本のゴルフの復興に力を尽くした。 |
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伊藤 長蔵 Chozo Ito (明20.10−昭25.1) 日本最初のゴルフ雑誌発行者 1922(大正11)年、日本で初のゴルフ雑誌『阪神ゴルフ(後にゴルフ・ドムと改題)』を発刊。JGA創立にも参画した。また、1925(大正14)年大谷光明らと渡英の際、ロンドンでゴルフ技術書を出版し話題になった。 |
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乾 豊彦 Toyohiko Inui (明40.1.28−平5.9.20) 元JGA会長 広野ゴルフ倶楽部、関西ゴルフ連盟理事長を務めるなど、戦後の日本ゴルフ界の発展、国際交流の牽引車だった。また、1982(昭和57)年に開館したJGAゴルフミュージアムを創設し、ゴルフ文化の啓発に尽力。 |
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