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競技報告
【プレーオフ悲喜こもごも】
第2日 競技報告:三田村昌鳳 写真:Gary Kobayashi
藤田 大
時松 源藏
午前と午後。アウトとインでスタートする予選ラウンド2日目。その午前の24組が終ろうとしていたころ「ひょっとしたらアンダーパーが予選カットラインになるのでは…」という噂すら流れた。それほど、選手たちはアグレッシブなゴルフをしていた。
けれども、午後に入って、選手たちのゴルフは予想よりもスコアが伸びずに、その予想は徐々に下方修正された。
クラブハウス前に、上位から予選通過ラインを予想する成績ボードがあって、炎天下にも関わらず人だかりが絶えない。
途中で、ホールアウトした選手の成績、上位からイーブンパーまでが24名。1オーバーパーまでは28人となり、残り6組を残して、イーブンパーまでは28名に
(左)高柳直人と加藤龍太郎
変わり、1オーバーパーで31名となった。
あと2組が残ったところで、イーブンパーで29名となり、1オーバーパーが33名となった。つまり、1オーバーパーの5名の選手のうち、プレーオフで3名が進出でき、2名が脱落する。
最後に1オーバーパーに滑り込んだのがベテランの藤田大(皐月・佐野)だった。インスタートの前半、38と崩れ、さらに折り返しの1番ホールでダブルボギーを叩いた。「途中で、あきらめかけたけれど、なんとか気持ちを切り替えて攻めのゴルフをしたんです」その結果、6、8、9と上がり4ホールで3アンダーパー。それでプレーオフに加われるチャンスを得た。

日本アマチュア選手権は、1907年が第1回。そして1917年大会までは神戸ゴルフ倶楽部と横浜・根岸コース(NRCGA)を交互に使った大会だった。その後、東京ゴルフ倶楽部ができて、大会も3コースを交互に使ったものに変わった。その後、1924年に、神戸ゴルフ倶楽部、根岸NRCGA、鳴尾ゴルフ倶楽部、舞子カントリー倶楽部、程ヶ谷カントリー倶楽部、甲南ゴルフ倶楽部、そして東京ゴルフ倶楽部の代表者が集まってジャパンゴルフアソシエーション(JGA)、現在の日本ゴルフ協会が創立された。そして日本アマが、現在のマッチプレー方式になったのが、1927年。その後ストロークプレー方式が採用され、2000年から再びマッチプレー方式が復活して以来、36ホールの予選ラウンド、そしてこのマッチプレー方式での戦いが続いている。
予選ラウンドが終わり、32名枠を決める2日目は、どうしても悲喜こもごものドラマが、決まって展開される。
昨年は、32名の最後の1人を決めるプレーオフに、7人が残った。過去には、13人で3人(2006)という人数もあった。実力が拮抗している近年では、ほぼ毎年プレーオフで、32名枠の最後の数人が決まっている。

プレーオフに残ったのは、高柳直人加藤龍太郎時松源蔵嶋本友我、そして藤田大だった。
プレーオフ1ホール目の、1番ホール。左ラフに打ち込んだ嶋本がボギーとし脱落した。残り4人のうち、ひとりが弾かれる。2ホール目。左つま先上がりのラフから、藤田が9番アイアンで絶妙のショットをした。ピン奧3メートル。それを外したがパー。この時点で藤田が7度目のマッチプレー進出を決めた。また、時松もフェアウェイから乗せて、2パットのパーで勝ち抜け。加藤は第1打を左にひっかけた。あわやOBという状況だった。第2打で乗らず。第3打をピン手前6メートルほどの距離を残した。それを外してボギー。そして高柳は、7メートルの第1パットを50センチに寄せていた。それを入れれば、加藤が脱落する。ところが、それを外してボギー。
「すぐに気持ちを切り替えられました。次のホールでとれば、勝てる」と思って、3ホール目にいく。加藤と高柳の決着は、高柳が2メートルほどのパットを沈めて終わった。うなだれる加藤に応援に回った仲間の選手たちが、慰めの言葉をかけていた。
いつみても、マッチ進出にかける最後の枠の争いは、過酷であり、しかも思い出に残るドラマを生む。

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