日本オープンゴルフ選手権競技(以下日本オープン)は、日本の頂点を決定するに相応しい難しいコースセッティングが施される。その中で勝利した選手は、“真の日本一”と称され翌日の新聞をにぎわす。この華やかな舞台の裏側には毎年全身全霊をかけて舞台作りに励むグリーンキーパーが存在する。
今年鷹之台カンツリー倶楽部にも、キーパー人生の集大成をかけて大会に挑んだ一人のキーパーが存在した。在原彊(ありはら・つよし)さん。1937年生まれの63才。大学の農学部を卒業した後、八千代ゴルフクラブへ就職。それから7年半後、鷹之台へやってきた。来年でキーパー歴40年を迎えるベテランだ。
在原さんの戦いは今から5年前にさかのぼる。1995年2月、野茂英雄が米大リーグ・ドジャースに入団し、全米中、日本中に“ミスターK”旋風を巻き起こした。この年の12月、JGAは2000年の日本オープン開催コースを鷹之台に決定した。
決定を聞き、在原さんは改めて鷹之台を分析した。
鷹之台では、1961年に日本オープンを開催した実績がある。“暗闇のプレーオフ”というゴルファーの記憶に残る大会だったが、当時開催コースとして得た経験は、もはや通用しない。
体格の違い、クラブの進化で、選手たちは当時では考えられなかった300ヤードを超えるティショットを簡単に放つ。住宅地がゆえ、限られた敷地面積内での大幅な距離の延長は難しい。アップダウンが少なく、ウォーターハザードが一つもないこの鷹之台を、どうセッティングして日本オープンの舞台に仕上げるのか。在原さんは試行錯誤した。
在原さんは頭を悩ませた末、ラフとグリーンという答えを導いた。そして、その結論は霞ヶ関、茨木、古賀…と過去の日本オープンを視察していくにつれ、確信へと変わっていった。
実際のコース改修は、1997年から着手した。まずはグリーンの芝の張り替えとグリーン周りを改修。セカンドショットに、より緊張感を持たせるとともに、繊細なタッチを要求するグリーンを目指した。以後、2年前にはフェアーウェーバンカー、1年半前にはティインググラウンドと順調に準備が進み、1999年を迎えた。 |