興味深いのは各ホールに名付けられた愛称。例えば、難易度の高い5番ホールは、当時ライバル意識を燃やしあっていた港町「横浜」の名前を付け、最終18番ホールには「一杯やろう」を意味するスコットランド語で呼ばれていた。そしてラウンド後の「19番ホール」では、質素なクラブハウスでほのぼのとした語らいの時間が流れ、社会的地位を除外した対等の人間関係が築かれていった。
開場2年目の1904年(明治37年)には、さらに9ホールが増設され、18ホールが完成。1905年(明治38年)9月、「婦人フォアサム競技」と「ロングドライビング競技」が、さらに10月には「キャディ競技」と呼ばれる、いずれも日本初の競技会が続々と開催される。
また当時、神戸と横浜の外国人たちはライバル関係にあった。「ゴルフで決着をつけよう」という意志のもと、1903年に創立していた「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(9ホール)と神戸GCとの間で「インターポートマッチ」も1907年(明治40年)からスタートしている。 |