関東初のゴルフ場「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション根岸コース」が誕生して2年後の1908年(明治41年)、後に東京ゴルフ倶楽部創立に力を注ぐこととなる井上準之助は、日本銀行ニューヨーク代理店監査役として米国へ渡った。そこでゴルフに出会い、すぐにゴルフに熱中し始めた。
帰国してもゴルフ熱は冷めることはなく、当時関東唯一のゴルフ場だった根岸コースへ出かけては、プレーを楽しんでいた。しかし、根岸はあくまでも在日外国人のために作られたゴルフ場。遠慮しながらのプレーにほとほと我慢できなくなった。そしてついに、1913年(大正2年)に舞子CCや甲南GCに先駆けて、井上は日本人によるゴルフ倶楽部創立に乗り出した。まず、社交グループ「東京倶楽部」の会員から有志をつのって、同年12月8日に「東京ゴルフ会」を組織。これを母体として「東京ゴルフ倶楽部」を設立したのである。
用地は、現在の駒沢オリンピック公園にあたる通称「大切山(でんぎりやま)」とした。1914年(大正3年)1月に手作業による工事を始めて、同年5月24日に6ホールが完成し、仮オープンに至った(その後9ホールとなる)。ついに、日本人による日本のゴルフ場が誕生したのだ。
英国でゴルフを覚えたメンバーは、完成した東京GCに“こんな大根を引っこ抜いたようなフェアーウェーは、本当のゴルフ場じゃない!”と怒りを露にした。しかし、欧米のゴルフ場を全く知らないメンバーは、この“ひどい”フェアーウェーこそがゴルフ場の姿だと思い、ゴルフに励んだという。その後者の一人が川崎肇だった。彼は練習好きもあって、海外でのゴルフ経験者を差し置いて、見事に第1回倶楽部選手権(1916年)で優勝。その後も川崎の勢いは止まらず、同選手権3連覇、1919年(大正8年)の日本アマチュアゴルフ選手権競技優勝など輝かしい成績を残した。ある意味でまさに純国産のゴルフ場が強いゴルファーを生み出したエピソードでもある。 |