東京GCが誕生してから、関西、九州でも日本人によるゴルフ場が設立された。外国人ゴルファーに気兼ねなくプレーできるようになった日本人ゴルファーたちは、次にクオリティーの高いゴルフ場を求めるようになっていくのである。
1921年頃、東京GCは会員数が増えるとともに、メンバーの技術も向上し、9ホールのコースでは、対応しにくくなっていた。周辺への拡張を考えたものの、思うようにいかず、メンバーたちの中で“別のコースを作ろう”との意見が出始めた。そして、完成したのが程ヶ谷カントリー倶楽部である。
1921年(大正10年)5月、まずは土地買収、借地のために東京GC内に「程ヶ谷ゴルフ株式会社」を設立。同社が、「程ヶ谷カントリー倶楽部」に土地を貸し、会社の株主は同時にゴルフ倶楽部の会員になるという、合理的な運営方法をとった。現在株主制で運営されているゴルフ場の多くが、この運営スタイルを採用していることから、日本のゴルフ場の歴史において、画期的なシステムの誕生と言えよう。
程ヶ谷CCの特筆すべき点はこれだけではない。18ホール、それも本格的なコース設計の専門家を招いて完成した、日本初のチャンピオンシップコースであるという点だ。ちょうどその頃の米国は、ゴルフ場建設ブーム。特にもてはやされていたのがドナルド・ロス。だが、ロスは多忙だったため、彼の助手だったウォールター・G・フォバーグに程ヶ谷CCの設計を依頼したと言われている。
1922年(大正11年)、来日したフォバーグ。滞在日数はほぼ30日間と限られた中、精密な設計図を書き上げた。また、設計だけではなく、実際にパッティンググリーンの造成まで行うなど、積極的に動いたという。だが、精密な設計図を書き上げたが故に、その後の作業は難航したという。そうして、苦労を重ねて、同年10月に9ホールが完成し、仮オープン。18ホールとクラブハウスが完成したのは翌年の春だった。
ところが、この年関東大震災に見舞われる。せっかく新設されたコースやクラブハウスも一部破損する被害を受けた。だが、翌1924年(大正13年)には施設内に練習場を建設。また、倶楽部ハウスの2階にベットルームを設け、宿泊制度も試みた。こうして見ると、現在の大半のゴルフ場と形態が等しい。まさに、日本のゴルフ場の礎を築いたと言える。
それから約40年後の1967年(昭和42年)、程ヶ谷カントリー倶楽部は都市化の波によって、横浜市内の相模原台地に移転することとなり、現在に至っている。 |