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久保田 瑞穂 Mizuho Kubota (大5−昭21) 日本学生チャンピオン 日本アマに勝つことを悲願としていたが、その目標は達成できなかったものの、クラブ修理やゴルフ百般にわたってプロも顔負けの、卓越した知識をもっていた。アマチュア離れした技術はいまも古いプロの間で話題になる。 |
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アーサー・H・グルーム Arthur Hesketh Groom (弘化3.9.22−大7.1.9) 日本最古の六甲コースの生みの親 英国ロンドンに生まれ、1868(明治元)年来日。明治初期から神戸に住み日本女性と結婚した製茶貿易商。1901(明治34)年六甲山上の別荘に日本初の4ホールのゴルフ場を造った。 |
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ジョー・E・クレーン Joseph Earnest Crane (明25.5.27−昭55.3.30) 元鳴尾ゴルフ倶楽部キャプテン元JGA理事 関西のゴルフ界ではクレーン3兄弟は有名である。ジョーはその末弟。3兄弟は英国人を父に、日本人を母に神戸で生まれ、生涯を日本で過ごした。ジョーは鳴尾の役員を歴任し、JGAの戦後の復興に貢献している。 |
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小寺 酉二 Yuji Kodera (明30.11.1−昭51) 元JGA常務理事 プリンストン大学に学び、ゴルフは赤星六郎の指導を受け、戦前は日本アマ、関西アマ選手権で活躍した。戦後はJGAの中枢として国際競技、ルールなどの面で日本のゴルフ界の牽引役だった。 |
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近衞 文隆 Fumitaka Konoe (大4.4.3−昭31.10.29) アマチュアゴルフ界期待の星 近衞文麿公の嫡男で総理秘書官 16歳で日本アマ選手権に彗星のごとく現れ、予選を通過してマッチプレー2回戦に進む大健闘で脚光を浴びた。プリンストン大学在学中に同大学ゴルフ部のキャプテンを務め、日米学生の交流を念願としていたが、第二次世界大戦でシベリアに抑留され、帰国を前に41歳の若さで亡くなった。 |
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佐々部 晩穂 Kureo Sasabe (明26.3.26−昭54.1.23) 元中部連盟会長・元JGA副会長 元JGA副会長。日銀ロンドン支店時代にゴルフを始め、名古屋地区のゴルフの発展に力を尽し、中部ゴルフ連盟の初代会長も務めた。 |
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佐藤 儀一 Giichi Sato (明32.6.13−昭42.7.2) 関西ゴルフ界の重鎮 商務で滞米中にゴルフを覚え、1931(昭和6)年サンフランシスコ市ゴルフ選手権に3回優勝。帰国後は日本アマ4勝などの他、日本のプロの米国遠征にも尽力。晩年はコース設計にも手腕を発揮。 |
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正力 松太郎 Matsutaro Shoriki (明18.4.11−昭44.10.9) カナダカップの日本開催を実現させた 読売新聞社主で日本で初のプロ野球チームの巨人軍を誕生させ、戦後は1957(昭和32)年の霞ヶ関カンツリー倶楽部でのカナダ・カップ招致に大きく貢献した。 |
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摂津 茂和 Mowa Settsu (明32.7.21−昭63.8.26) 作家 戦前のゴルフ雑誌記者を経て作家になり、著書多数。『日本のゴルフ60年』の著者。『日本ゴルフ協会55年の歩み』、『日本ゴルフ協会60年史』などを著した。JGAゴルフミュージアム創立に史料委員長として尽力。 |
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相馬 孟胤 Taketane Sohma (明22.8.14−昭11.2.23) 元JGAチェアマン、理学博士 洋蘭の研究家として知られ、東京ゴルフ倶楽部が東京・駒沢にコースを造った際、専門知識を生かして芝の栽培、研究に取り組んだ。朝霞コースの全面ベント化には失敗したが、今日、日本のゴルフ場で使われている芝は相馬博士の研究の遺産といってよい。 |
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