努力は着実に実を結び、甲斐は大学に入ってからも一歩一歩前進した。大学2年の関東アマチュアゴルフ選手権で優勝し、翌年の同大会でも優勝を飾り2連覇を達成。こうなると日本アマチュアゴルフ選手権競技、日本学生ゴルフ選手権競技での活躍も期待されたが、その前に越えなければならない大きな壁が立ちはだかっていた。一人は甲斐が尊敬し続けてきた清田であり、もう一人はアマチュアゴルフ界の不動のエースとして君臨した宮里優作(当時東北福祉大)だ。特に当時の宮里の強さは圧倒的で2000年から2003年までの日本学生ゴルフ選手権を3連覇。この間、甲斐も同大会で15位、8位、2位と年を重ねるごとに成績を挙げたが、頂上にはいつも宮里がいた。
「日本アマも日本学生も、できることなら宮里さんや清田さんがいた2002年に獲りたかった。けどやっぱり敵わなかったですね。自分の力がまだ及びませんでした」。
迎えた2003年。甲斐は日本体育大学ゴルフ部のキャプテンとなり学生生活最後のシーズンに望んだ。大学卒業後にプロ入りを目指す甲斐にとって、日本アマに挑戦できるのは恐らくこれが最後。もちろん日本学生のタイトルを手にいれるチャンスはこの機会を逃すともう永久に巡ってこない。
「崖っぷちに立たされているというプレッシャーは確かにありました。だから2003年シーズンはスタートから変えてみようと思ったんです。関東は僕が生まれ育った九州と違って冬の気温が低いので、これまで冬場はあまりクラブを握らず体力作りをメインにトレーニングしていましたが、2003年シーズンは冬場からボールを打ち込みました。そのおかげで春先からすごく調子が良かった」。
心身ともに万全の体勢で望んだはずのシーズンだったが、思わぬ落とし穴は6月の関東アマチュアゴルフ選手権で待っていた。
「3連覇を狙った大会でしたが、初日に83の大崩れ。なんとか持ち直して22位タイになりましたけどさすがにがっくりしましたね。でも逆に関東アマで負けて気が引き締まりました。それに僕には関東アマや九州アマで優勝した年は、日本アマで必ず予選落ちをするという不吉なジンクスがあったんです。だからこの時も気持ちを切り換えて『これは良い兆候だ』と自分に言い聞かせました」。
瀬戸際に立たされた甲斐の心は明らかに変化していた。宮里や清田ら大先輩の背中の後ろで“2人がいるのだから駄目モト”と考えて控えめにプレーしていた日々。しかしもう2人はいない。それによって「自分が勝たなきゃいけないと自覚した」ことで謙虚な男が一転、自ら攻撃に転じた。
「日本アマには過去5回出場しましたが、いつもベスト32を目標にしてプレーしました。だけど2003年は初めて最初から勝ちにいくつもりで参加しましたね。しかも優勝するだけでなく、予選もメダリストで突破するつもりでした。初めから予選突破に照準を合わせていると、心のどこかで妥協しちゃう。それが今回はなかった」。
終わってみれば日本アマチュアゴルフ選手権競技は甲斐の完勝だった。メダリストの座こそトップと1打差の2位で惜しくも逃したものの、マッチプレーに移行してからの戦いぶりは圧巻そのもの。
「準決勝の池田勇太君との戦いが一番苦しかったです。10番ホールで池田君がボギーを打ち、僕にチャンスが巡ってきましたが、そのホールは僕もボギーでせっかくの好機を逃してしまいました。でも14番のパー5ホールで2オンに成功したんです。そこでバーディをとって『これはいける!』と思いましたね」。
“事実上の決勝戦”とも言われた準決勝の池田との戦いを制して流れにのった甲斐は、決勝戦の長谷川克との戦いを7&6の大差で制し、悲願の日本アマチャンピオンの称号を得た。 |