朝からの雨…。宮里美香は、スタート前に心を決めていた。「スコアを伸ばすことより、我慢のゴルフに徹する」と-。雨を含んだラフは、想像以上に重くなる。グリーンを外せば、その時点でピンチに立たされる。そこで、慌てることなく、落ち着いて寄せる。寄せ切れなければ、パッティングでしのぐ。そんな自分のスタイルを強く心に刻み込んでいたのだった。
10番からのスタートで右ラフからの第2打が20センチについた。タップインのバーディー。幸先のよいスタートとなったが、気持ちが浮つくことはなかった。11番からは、パーを重ねていった。どんな状況でもいつもどおりのルーティーンでボールに向かう。15番ホールからショット
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がわずかにブレはじめた。キャディからアドバイスされた。
「早くなっている。自分のルーティーンのリズムを守って」
これで、再びリズム、テンポを取り戻して、後半にターンする。1番(パー5)はラフからの第2打を丁寧にフェアウェイに戻し、残り90ヤード強の第3打を3メートルにつけて、この日2つ目のバーディー。その後は、またパーを重ねる。そして、7、9番でもバーディーを加えて上がってみれば68。2日間通算で9アンダーパーまでスコアを伸ばしていた。
途中でスコアボードに目を向けるシーンが何度かあった。
「みんな伸び悩んでいる。自分は、凄いスコアになっているな…なんて、呑気なことを考えていましたね。納得のいくゴルフを続けられたからだと思います」
ボギーなしで4バーディー。ホールアウト後、宮里藍から「この状況であの内容は素晴らしい」と絶賛された完璧なプレーであった。我慢しているうちに、結果的にはスコアが大幅に伸びる。理想的な流れでもあった。
前半36ホールでの9アンダーパーは、1995年大会の福嶋晃子と並ぶ大会最少スコアで、2日目の68は、大会タイスコアだ。
2日目の宮里美香が、心に決めていたことがもうひとつある。「どんな状況であろうが、自信をもってプレーすること」であった。その背景には、こんなことがある。
04年の日本女子アマチュアゴルフ選手権。中学生だった宮里美香が優勝した。14歳。最年少優勝だった。その年にプエルトリコで行われた世界女子アマ。宮里は特例で(代表選手は高校生以上)JGAナショナルチーム育成部員として代表に選ばれ、諸見里しのぶ、原江里菜とのチームで派遣された。この大会には、台湾チームにヤニー・ツェン(全米パブリックアマ選手権でミッシェル・ウィーを破っての優勝で代表に)、米国チームにはポーラ・クリーマーといった選手も出場していた。翌年の世界ジュニアでは、ヤニーを退けて宮里美香が優勝。この頃から、宮里は、世界を舞台にすることを強く意識するようになっていた。
08年、高校生活を終えると、渡米した。フロリダのIMGゴルフアカデミーでレッスンを受け、スウィング固めをしながら、USLPGAツアーのQTに挑戦するためだった。日本での第一次QTも通過していたが、こちらは日本女子プロゴルフ協会に樋口久子会長を訪ねて、日本ではなく、アメリカでプロになる決意を告げ、了承された。再びフロリダ。近くでUSLPGAツアーのトーナメントが開催されると聞いて最終ラウンドに会場に行くと…。そこでは、あのヤニーとロレーナ・オチョアが優勝争いを展開していた。「早く、自分もこの舞台で活躍したい」と、ますます思いを強くする宮里美香だった。
最終QTも無事突破して今年から臨んだUSLPGAツアー。しかし、多様な芝生に惑わされることになった。
「1年間戦ってきて、ちょっと自信を失っている自分がいました。今回、日本に戻って、はっきりとそのことを自覚させられました。だから、日本女子オープンでは、ネガティブにならず、気持ちを強くもって1打に向かう。2日目には、それも自分に言い聞かせていました」
宮里美香には、06年大会の宮里藍を更新する史上最年少優勝も見えてきた。
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