自らを苦しい戦いに追いこんでしまったのは、スタート1番パー5の3パットだった。フェアウェイ中央からの第2打。「ちょっと左足上がりだったのでボールが上がると思ったのと、3番ウッドでは引っ掛ける不安があった」ということで、手にしたのはドライバーだった。会心のショットとなってグリーンをとらえた。しかし、ファーストパットが読み以上に左に切れて2メートルほど残ってしまった。結局、このパットも沈めることができずに3パットのパーに終わった。
「バーディで、すっとスタートできていれば、いい流れの中で、もう少し楽な展開になったと思います」
2番以降もアウトは、すべてパーオンしたが、4、7番と3パッ
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トでボギーにした。1番ホールから、こうした流れを自ら生み出してしまったといえよう。
インにターンするインターバルで自分に言い聞かせていた。
「これが、日本シニアオープンなんだ。みんな苦しみながらプレーしているはず。我慢して、1打に集中していけば、まだまだ(優勝の)チャンスは続く」
10番パー5でバーディパットが決まった。続く11番パー4ではグリーン右サイドのバンカーからのショットが、そのままカップに沈んだ。この連続バーディで再び単独トップに。もっとも、そのまま楽に逃げ切らせてくれる試合ではない。大詰めでもドラマが待ち受けていた。
室田淳とトップタイで迎えた17番パー3でティーショットを「とんでもないミスをして」大きくプッシュアウトした。右林へと続く急斜面に打ち込んでしまったのだ。斜面を転がったボールは、カート道の溝で止まった。ドロップしても止まらない。急激な左足下がりのライにプレースしての第2打はバンカーに。ダブルボギーを覚悟したというバンカーショットがピンそば50センチに寄り、「スーパーボギー」でホールアウトできた。このとき、18番パー4でももうひとつのドラマが起きていた。まるで劇中劇のような展開だった。8アンダーパーで追って追っていた室田が、18番でボギーを叩き、渡辺のリードがキープされたという情報が届いたのだ。
渡辺には、どうしても優勝したいという強い思いがあった。49歳のときに右肩を痛め、腕が上がらなくなってクラブを持てなくなった時期があった。「これで、もうゴルフとはお別れ。そんな気持ちになっていたときに所属先であるセガサミーHDの里見治会長から“シニアツアーがあるじゃないか。肩を治し、リハビリして、そこを目指せ”と励ましていただきました。所属契約を解除されてもおかしくない状態なのに…。実は、その会長の御子息(長男・治紀氏)が、今日都内のホテルで結婚式を挙げるんです」
渡辺とともに招待状を受け取っていた渡辺の師・青木功から第3ラウンドを終えた夜に電話が入った。
「結婚式は俺に任せておけ。最終ラウンドが終わったら、式に駆けつけるから大丈夫。お前は、遅くなってもいいから優勝の報告をしにこい」
1打のリードで迎えた最終18番ホール。右ラフからピンまで167ヤードの第2打。緩やかな打ち上げになっている。渡辺は、6番アイアンでのショットに入る前に、こんなことを考えていたという。
「レギュラーツアーの選手なら、こんな状況ではグリーンのセンターに乗せる安全策をとるのだろうけど、自分は、それじゃあいけない。グリーンにのせてからが、一番大きな問題に取り組むことになるのだから、ショットで勝負していかなくては。バーディチャンスにつければ、パーセーブに苦しまなくて済むだろう」
ピンは2段グリーンの上に立っていた。そこをキャリーで狙う。それが渡辺の決断だった。「シニアツアーで戦うようになって、ベストに近いショットになった」という1打は、アドレナリン作用でピン奥にまで飛んでしまったが、ピンと同じ段の6メートルほどに止まった。
1打差。同じ最終組でプレーした高橋勝成の下の段からのバーディパットは、わずかに外れた。あとは、渡辺が2パットでも優勝となる。そのファーストパットが、1メートル以上カップをオーバーした。返しを慎重に(そう見えた)沈めて、ようやく優勝が決まった。
「ね、絶好のラインで6メートルぐらいしかないパットをOKに寄せられないんだから、僕のパッティング技術じゃ、安全策という常識は通じないでしょ。返しのパットも口から心臓が飛び出してしまうぐらいバクバクだった。決まった瞬間? そりゃあ、本当に幸せな気分だった。生きてきた52年間で、最高の幸せを感じさせてもらいましたよ」
インタビューを終えると、渡辺は、その足で東京に向かった。
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