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【シニアのライバル対決。中嶋と室田はともに-2】 |
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第1日
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競技報告:三田村昌鳳 写真:Gary Kobayashi |
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「室田と僕は、シニアのライバルだから……。いまは、それに直道が入ってAONならぬMNN(室田・中嶋・直道)のライバルって言ってもいいよね」と言ったのは、もちろん中嶋常幸だった。
この日、その中嶋と室田が同じ組でのラウンド。
「前半は、ほんとに室田とよく競い合っていたよ。1番(パー5)でお互いにバーディ。室田が、3番でバーディ。僕が7、8番とバーディをとったら、室田が、9番でバーディ……。僕としては、10番でフェアウエイからボギーを叩いたことが致命的なミスだった」と中嶋が解説してくれた。
後半、その10番のボギーのあと、ブレーキがかかって、そこから8ホール、連続パーで2アンダーパーの70。
一方の室田も、後半では14番でボギー。やはり2アンダーパーの70でホールアウトした。
「(中嶋さんが)ライバルなんてとんでもないですよ。やっぱり、上手いよね。ラフからのショットの処理なんか、できればすぐ近くの目の前で見たいほどですよ」と室田は言う。
昨年、念願の日本シニアオープン優勝を果たした室田だった。それまで日本シニアオープンに出場して以来、ベスト10を外していなかった。2005年は、6位タイ。そして2006年から4年連続2位。昨年も優勝争いを演じて4位タイ。
「その思いがようやく実った。嬉しいという気持ちと、正直、ホッとしたという気持ちもありますね」と語っていた。
「(ディフェンディングチャンピオンというよりも)勝てたことで、精神的にも開放されましたね。それまで1打差で負けたり、プレーオフで負けたりということが重なって、勝ちたい勝ちたいという気持ちが強すぎて、逆に自分のゲームを壊したり、プレッシャーになったりしたけれど、いまは開放されて、いい感じでプレーができるようになりました」。
呪縛から解けたのである。
室田は、今季、日本プロシニアにも優勝している。
そのとき優勝争いをしていた飯合肇が「室ちゃんは、しぶとい。相手がちょっとでもミスをしでかしたり、油断すると、すぐに刺しにくる。それに(室田の)3メートル以内のパッティングは、6、7割は、入ると思っていないと落胆が激しくなる」と語っていた。それほどゲーム運びが巧で、粘っこいのだ。
「今日は、暖かかったし、風もないし……最高の滑り出しです」と笑顔で語っていた。
思い入れといえば、中嶋常幸とこの東名古屋には、深いエピソードが隠されている。
それは1973年の日本アマチュアに遡る。中嶋は、その前年に日本アマ初優勝をしていた。そして迎えた翌1974年大会が、ここ東名古屋だった。そのとき中部銀次郎と優勝争いをしていた。そして中嶋は、敗れた。6位だった。さらにことのき、最終ラウンドに激しい雨でフェアウエイが、ほとんどカジュアルウオーター状態。中嶋が、ドロップする際の処置について中部からクレームがついた。苦い青春時代の思い出が、このコースにあった。
帰路は父親と一緒に車だった。途中、サービスエリアで父親が、中嶋のアドレス姿勢に対して「こんな構えだから勝てないんだ!」と叱責され、足蹴りされたと述懐した。
そしてプロ転向した中嶋が、再び、ここにやってきたのは、その11年後の1985年日本オープンだった。
中嶋は、そこで見事に雪辱を晴らした。そのとき副賞で金の懐中時計を貰った。自宅に帰り、父親にその懐中時計をプレゼントした。受け取った父親は、後ろ向きになって、嗚咽した。この話は、今回のチャンピオンズディナーのときに、初めて中嶋が披露した。
「ここは思い出深いコースだから……」と語った。
第1ラウンド、3アンダーパーのフランキー・ミノザと1打差で、この中嶋と室田がいる。さらに2アンダーパーには、尾崎直道、井戸木鴻樹、真板潔が並んでいる。
想い出深いコースで勝ちたい中嶋。日本シニアオープン未勝利の呪縛から解き放たれ、脳裏の奥底にあった“勝ちたい”というイビツな塊がなくなった室田。このふたりの残り54ホールの行方は、見逃せない。
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