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記事:福島 靖
日本アマチュアゴルフ選手権が1907年に六甲で始まって99年。日本ゴルフ協会が組織されて82年、日本オープン、アマチュア東西対抗(昭和45年に廃止)を創始して79年。日本のゴルフは、いまやアメリカに次ぐ大国といわれるまでに成長した。
1907(明治40)年10月20日、日本アマチュア選手権の最初の開催コースは神戸ゴルフ倶楽部。チャンピオン名は同倶楽部ハウスの掲額に刻まれている。
しかし、知っての通り、当時は外人時代である。日本人は誰一人ゴルフをやっていない。日本アマチュア選手権といっても実体は日本にいる外人選手権であった。
この選手権が日本アマチュアの実をそなえるようになったのは1924(大正13)年10月、ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA)が出来てからである。
すでにその頃、日本人ゴルファーが外人にとってかわり、選手権の主軸を占めていた。大谷光明、川崎肇、赤星四郎、同六郎、田中善三郎らがその代表格であった。
1914(大正2)年、日本人だけの倶楽部として生まれた東京ゴルフ倶楽部(駒沢)で磨きをかけたプレーヤーの中から、5年目(大正7年)で井上信が優勝。ついで川崎肇が勝ち、1924(大正10)年からは完全に日本人主役の日本アマチュア選手権となった。日本人アマチュアの台頭である。
JGAの創立は日本人アマチュアの伸張に基盤を置いているが、主催競技にナショナルハンディキャップ制を導入したことが注目される。この制度は現在実施されているJGAハンディキャップのルーツで、大谷の大きな偉業である。『ナショナル選手権に統一ハンディがないのは欠陥大会だ』と大谷は主張した。
昭和2年に始まった日本オープン選手権は、大谷が主張したナショナルハンディが適用され、アマチュアはハンディキャップ8またはそれ以内と決められた。
日本のプロゴルファーの誕生は1925(大正14)年、赤星六郎がアメリカから帰ってきた後だ、というのが通説だ。プロの生まれたのは、元老安田幸吉が1924(大正13)年頃、宮本留吉は1925年頃と伝えられているが、プロとは名ばかり、人を教えられるだけの素地がなく、赤星六郎から『ゴルフとはこうするものだ』と教えられ、はじめてレッスンの仕方を覚えたというのが実情である。
安田は思い出話の中に『六郎さんを先生と呼んだ』といい、宮本留吉は昭和2年、茨木CCから東京留学を命ぜられ、六郎のもとで3ヶ月コーチを受けた。日本オープンの初代チャンピオンが赤星六郎であったことは、いわば『先生の勝ち』で、当然すぎるほど当然であった。第4回(昭和5年)まではアマチュアがベスト5を守り通してきた。これをアマ、プロ拮抗時代ということが出来る。
1931(昭和6)年からアマ、プロの勢力分布が一変する。この年からJGAは日本プロ選手権を始めた。
その前哨戦として関東と関西に地区選手権ができた。
年度の競技日程は地区のプロ選手権=日本プロ選手権=日本オープン選手権といった具合にピラミッド型に作られ、プロたちは頂点の日本オープンを目指して戦う態勢におかれた。JGAは日本のゴルフの未来をプロにかける方針をとった。
年を追うごとにプロは力を増し、その数も増えていった。安田、宮本、浅見の3強に続いて関東では村上儀一、小池国喜代、中村兼吉、関西では村木章、森岡二郎、石角武夫、少し遅れて石井治作、上田悌造、台湾から林万福が現れてプロ時代の幕開けとなった。
昭和6年、プロは地図を塗り替えたが、アマチュア界も転機を迎えた。大谷光明、川崎肇の時代は去り、赤星六郎、四郎に新人が割り込んできた。その旗頭が近衞文隆である。学習院中等科5年生の16歳で、日本オープン初出場、前半でカットされたが赤星六郎を抜いてアマチュア第1位のスコアを出し、天稟の才をひらめかした。
昭和10年代。アマチュア界は歴史が古く、かつてのチャンピオンも若い勢力に排除されるという、どのスポーツの世界にもあるパターンをたどったが、プロゴルフ界だけは歴史が浅く、すべて若者で新旧の交代はなかった。
二人の巨人、年長の宮本留吉は昭和15年までに日本オープン選手権に6回優勝の大記録を作った。戸田藤一郎は日本プロに、13年から15年までの3連勝を含む4回優勝を記録した。
石井治作、森岡二郎、井上清次、藤井武人らの第2勢力が、決勝まで漕ぎ着けたものの、宮本、戸田の堅い壁は破れなかった。それでも若い力が芽吹いてきた。昭和10年の日本オープン(東京GC・朝露)に井上清次(相模)、鈴木源治郎、中村寅吉が初出場した。井上、鈴木はクォリファイしたが、中村は落ちた。
井川栄造(銭函)、丸井義春(鳴尾)、川井誠作(武蔵野)、発智恭次(霞ヶ関)など、新しい顔も見られたが、長続きはしなかった。
日本のプロの第二勢力が伸び悩んだのに比べ、外地(台湾、朝鮮)出身のプロの活躍が目立ったのも戦前史の特徴である。
モンテンス(霞ヶ関)、陳清水(武蔵野)は昭和8年の日本オープンに1、2位。林万福(台湾、東京GC専属)は10年の日本オープンに優勝。16年の延原徳春(京城)を加えて外地三人男が日本オープンのタイトルを奪った。
その後を継ぐ、もう一人の外来プロがいた。満州から内地にやってきた孫子釣(21歳 小野光一)である。彼は初出場の14年の日本プロ選手権予選で4位タイになって注目され、17年には準決勝者となり、程ヶ谷での苦しい修行の成果をみせた。
このように、戦前は日本オープン、日本プロ選手権は日本人と外地人との闘いでもあった。
ここまでが選手権史の表面の部分である。しかし、その基盤と組織作りには目に見えない部分がある。その主なことは前述のようにナショナルハンディキャップの導入である。大谷光明は大正13年10月、JGAを設立、翌14年2月に渡英、ナショナル選手権についての競技要項を調査、ジャパン・ナショナル・ハンディキャップ制をつくった。
コースのスクラッチスコアを決めること、新ハンディ制をゴルファーに理解させること、カードを提出し、ハンディの査定を受けること、など、実施準備に一年余の歳月がかかった。こうして新ハンディ制を適用したのが昭和2年の日本アマチュア(ハンディ12)とこの年から始まった日本オープン(ハンディ8)である。
日本オープンの賞金は当時で300円。戦前はアマチュアのベストアマチュア賞などなく、これは戦後の副産物である。アマチュアはトップから3位以内に入らないとご褒美はもらえなかった。
JGAは昭和24年11月16日、再建の総会を開いた。名称は日本ゴルフ連盟(25年には旧名、日本ゴルフ協会に改称)。理事長に石井光二郎を選んだ。主催競技も戦前と同じにした。
ゴルフルールは米国ルールを採用。ただし英国式の小型球の併用を認めた。戦後、初のオープン選手権は25年10月2、3日の2日間、我孫子ゴルフ倶楽部で開かれた。競技方法は創始当時に復帰し、第1日の36ホールを終わって首位より19ストロークまでが第2日の後半36ホールのプレーを続けることに改められた。
アマチュアの参加はハンディキャップ3まで。総勢93人(うちアマチュアは36人)が出場した。第2ラウンドで島村祐正がトップを奪い、ホームコースの林由郎とデッドヒートを演じた。だが、島村は大詰の17番で、よもや、まさかのスリーパットをしたのが響き、大漁を逃した。島村はワンパット可能なバーティのチャンス。打とうとした瞬間、観客の一人が大声を出した。島村はその方向を振り向いたが、精神集中は乱れ、ボギーを叩いてしまい林に抜き去られた。林の辛勝、島村の終盤の乱れ。戦後第1回目の日本オープンのハイライトだった。
写真提供/(一社)東京ゴルフ倶楽部