大谷カップの授与は昭和3年の第2回大会から |
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昭和2年5月、横浜の程ケ谷カントリー倶楽部で第1回の日本オープン選手権が開催された頃はまだプロのレベルは低く、アマチュアゴルファーの方が技術は上だった。アマがプロを育てていた時代だ。優勝した赤星と次点となったプロの浅見の間は校長先生と生徒ほどの実力差があった。
競技はアマチュアの赤星六郎が72ホールを通算309打の独走。浅見緑蔵に10打の差をつけて勝った。参加者は17人(内プロが僅かの5人)。前半でカットされ、後半に進んだのはトップから19打差までの僅か7人だった。
翌昭和3年5月26、27の両日にかけて第2回の日本オープン選手権が東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部で開催された。プロの進境が著しく、程ケ谷育ちの浅見緑蔵がアマチュアの赤星四郎と優勝争いを演じる大健闘をした。弱冠20歳の青年は最終ラウンドで大会のベストスコア72をマークして初優勝を飾った。
この年、観戦なさった朝香宮鳩彦(やすひこ)殿下が新調の優勝カップを浅見に手渡し、お言葉を賜った。日本オープン史上、優勝カップを宮殿下が授与された例は他にない。朝香宮殿下は開催倶楽部のプレジデントとしてわざわざカップのプレゼンターになられたのである。 |
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優勝カップは大谷光明さんのアイディアを生かす |
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このように、日本オープンに優勝カップが登場したのは、昭和3年の第2回大会からだったが、大盃は日本ゴルフ協会チェアマン大谷光明が自らデザインしたものだった。ところがユニークな形をしていたので、一目見てそれと判った。発案者の大谷は周の時代の香炉をモチーフにしたといわれる。形から受ける印象は、なんとなくお香臭いといわれた。大谷が西本願寺の高僧だったせいもあろう。 |
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忍び寄る戦火の影響を受けても |
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昭和16年12月8日、日本は米英に対して宣戦を布告し、太平洋戦争が始まった。昭和17年、大日本体育協会は時の政府によって解散させられ、その加盟団体だったゴルフ協会も当然、解散させられた。翌18年1月21日、大日本体育会が発足し、ゴルフは打球部会と名を変えて細々ながら活動を継続できた。戦前最後となった日本オープンは昭和16年5月8日〜10日にかけて程ケ谷CCで開催された。戦線の拡大に伴ってゴルフは自粛ムード。JGA主催の5競技の内、アマチュアとプロの東西対抗は中止され、残る日本オープン、日本アマ、日本プロの三選手権だけがかろうじて続行されることになった。
程ケ谷でのオープン選手権には73人(アマチュア24人)が参加した。戸田藤一郎を除けば、目ぼしいプロはほとんど参加した。第1ラウンドは初出場、20歳の小針春芳(那須)と行田虎夫(茨木)がトップに並んだ。第2ラウンドで小針は77を叩いて脱落し、代わって68のコースレコードを出した中村寅吉(程ケ谷)と延原徳春(京城)、行田、岩倉末吉(程ケ谷)の4人が首位に並んだ。第3ラウンドは延原が手堅いプレーで首位を守り、優勝の行方は最終ラウンドに持ち込まれた。三番手にいた宮本が追い込み、延原を脅かしたが2番のOBで圏外に去り、最後は中村、延原の争いになった。中村はパットのできがいま一息で、結局、延原が競り勝ち、カップは玄海を渡って京城に持ち去られた。延原のスコアは290だった。
この延原の優勝を人一倍喜んだ人物がいる。延原を献身的に世話し続けた富野繁一(当時朝鮮ゴルフ連盟の常務理事)だった。
延原の優勝は京城ゴルフ倶楽部日本人メンバーの応援の賜物だったのだ。後日、富野はこんな一文を寄せた。
『延原優勝当日の晩、電話があり、赤星四郎、六郎、橋本寛一、堀籠乕之介、大屋幾久雄、成宮喜兵衛の諸氏より、いちいち祝辞に接し、いながらにして感激の涙に咽びました。さらに、一層激励を与え、ぜひ2連覇のレコードをとも考えています』
さて、京城に持ち帰ったカップは太平洋戦争が始まったため、延原が保全を期して地中に埋めたと伝えられている。しかし、あの独特な形をしたカップは姿を消したままだ。戦時中の銀器供出でどこかへ持ち去られたのだろうか。昭和40年代、延原は日本のゴルフ競技参加のため来日したが、カップについては一切語らなかった。謎めいているが、出てこない。 |
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新しいカップの誕生 |
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昭和20年の敗戦から4年後、日本ゴルフ協会は復活し、その翌年には日本アマと日本オープンが再開された。日本オープンは昭和25年、我孫子GCで、26年は鳴尾GCで行われたが、優勝者にカップは与えられなかった。カップが無くなったからだ。27年になって『日本を代表する競技にカップがないのはおかしい』とJGAは新しいカップを作り直した。だが、惜しいことに戦前のものとは、似ても似つかぬものになった。時期的にも物資が不足していた時代であり、仕方がなかった。USオープンの優勝杯も一度、クラブハウスの火災で焼失した。だが、再製の時、原型通りに復元されている。 |
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カップを持たないチャンピオン逸話 |
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昭和27年の日本オープンは川奈ホテルのコースで開かれた。中村寅吉が279打で地元の石井茂を抑えて優勝し、新調のカップ受賞の第1号になった。この時、優勝カップを持たない前代未聞の写真ができた。理由はこうだ。大会は10月となれば日暮れは早い。表彰式が済むまでは待てない。フラッシュが万全でないから報道陣から『明るい内に撮りたい』と要求が出た。JGAは『気持ちは判る。だが、まだカップは授与されていない。カップを持たないなら』とOKした。JGAは毅然たる見解を示して、報道の要求を受けた。そこでカップを持たない優勝者の写真が出回ったのである。
優勝カップはその競技の象徴である。日本の伝統的なスポーツには立派なカップが沢山ある。大相撲の賜杯、東京六大学にも天皇杯などなど。カップに名を刻むことができるのはチャンピオンのみである。スポーツは文化といわれる伝統あるしきたりである。 |
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【注】延原徳春=本名は延徳春。日本が朝鮮半島を植民地として支配していた時代、朝鮮総督府が朝鮮姓を廃止して日本式の名前に改めさせた。
朝鮮ゴルフ連盟=戦前、日本ゴルフ協会傘下の地区連盟で関東、関西の連盟などと同格だった。京城ゴルフ倶楽部は朝鮮ゴルフ連盟に加盟していた。 |
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資料提供:東京ゴルフ倶楽部史料室 |