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History大会の歴史

記事:福島 靖

日本女子オープン開催を
推進した
今道潤三氏
(元東京放送社長)の先見の明

日本女子オープンゴルフ選手権は創始(TBS女子オープンゴルフ)から37回目の大会になる。この選手権のルーツは昭和43年12月11日〜同12日、秋雨そぼ降る河川敷コースで開かれた第1回TBS(東京放送)女子オープンゴルフだった。

いまは日本女子ゴルフ界最大のイベントとして盛況だが、この大会が企画され、開催が論議された時代は反対の声が強く、実現できたのはゴルフ熱中紳士の思い入れがあったればこそ。もし周囲の反対に提案が押し切られていたら、女子オープンの成長は遅れていたろう。

そのゴルフ好きの紳士とは東京放送元社長の今道潤三さん。79歳の生涯を閉じたのは昭和54年。今道さんとTBSの大会の開催に漕ぎ着けるまでの道程はこうだった。

今道潤三氏(いまみち じゅんぞう)

今道潤三氏
(いまみち じゅんぞう)

明治33年10月 長崎県生まれ
大正14年、京都帝大法学部を卒業して大阪商船入社。
昭和22年、退社して27年にラジオ東京(TBSの旧社名)入社。
40年、TBS社長に就任、44年、相談役。54年5月死去。79歳だった。
マドロスパイプを愛用し、小型タンクを思わせるようなずんぐりしたタイプの紳士だった。

女子プロなんて
考えられなかった時代

日本は昭和20年、米、英連合国軍に対して無条件降伏をした。
敗戦。これを機に軍国主義から民主主義に変った。
男尊女卑の風習から男女平等、婦人参政権が確立され、国会に着物姿の婦人議員が登院した。世の中の風習の変化に沿うように、スポーツの世界も変化した。ゴルフは戦後、婦人ゴルファーが急増した。
その後、婦人のためのゴルフトーナメントが開かれるようになった。

第1回女子オープンゴルフの歓迎アーチ 第1回女子オープンゴルフの歓迎アーチ

戦前、婦人のための競技といえば東西対抗があるのみ。個人戦はなく団対戦だけだった。昭和34年、日本で初めての婦人ゴルファーの選手権が開催されたが、対象は女子アマチュアだった。日本の女子ゴルフは戦前、戦後を通じてアマチュアが主流をなし、女子のプロの存在なんて全く考えられなかった。

そんな時代背景の中で日本女子オープンゴルフ選手権の下地になったTBS女子オープンゴルフ競技が埼玉県北葛飾郡の河川敷のTBS越谷ゴルフコース(現在はセミパブリックの越谷ゴルフ倶楽部)でスタートしたのである。当時は破天荒な企画に思えた。初めての試みであるオープン競技だからプロ、アマを問わず、広い範囲の女性ゴルファーに参加を呼びかけた。だが、アマチュア全盛期だから『ヨチヨチ歩きを始めた女子プロはアマチュアには勝てないだろう』というのが巷の見方だった。

なにしろ日本で女子プロが『市民権』を得たのは昭和36年のこと。20人ほどの組織で細々と月例競技を開き、いずれはアメリカのような女子プロゴルフ界に成長することを夢見て研鑚を積んでいた。だから力のうえではアマチュアのほうが強いと見るのは当然だった。

今道さんの
女子オープンゴルフ大会開催
提唱にギョ−!

第1回目の女子オープン優勝は樋口久子、ベストアマチュアは清元登子 第1回目の女子オープン
優勝は樋口久子、ベストアマチュアは清元登子

東京放送がスポーツ番組に力を入れだしたのは昭和30年代に入ってからだ。アマチュアスポーツのみならず、プロボクシング、プロ野球、大相撲などの中継に積極的だった。ほどなくしてゴルフが一般化してきたので独自の番組の制作を始めた。陳清波さんを専属プロに迎えて制作した“ダウンブロー”は好評だった。

日本女子オープン開催の企画が持ち出されたのはその頃だ。木元尚男さん(元TBS社長室局長)はこの事業の手がけるに至った時の記憶をこう明かしてくれた。

昭和40年前半のある日、運動部、編成部、営業部合同の会議がTBS5階の役員会議室に招集された。席上、今道社長が声を一段と張り上げ『女子プロゴルフの競技をやる』と提唱した。出席者、とくにスポーツ部担当者は眉をひそめ『女子プロのゴルフ競技なんてとんでもない』とブーイングの続出だった。とはいえ、今道さんは社内の実力者、トップの鶴の一声で準備は進んだが、思わぬところでつまずいた。

JGAの後援を取り付けて
スタート
初代チャンピオンは
樋口久子さん

TBS女子オープンゴルフの主催者としてTBS関連会社(ティ・ビー・エス・ゴルフ)が名乗りを挙げ、日本ゴルフ協会に大会の後援願いを出した。日本ゴルフ協会は『女子ゴルフの開催は時期早尚論』が圧倒的で、石井光次郎・日本ゴルフ協会会長は『女子ゴルフ発展のために喜ばしいことだが、日本ゴルフ協会は公共のスポーツ団体である以上、私的な企業を応援するわけにはいかぬ』と突っぱねた。そこでTBS側は主催者を私的なゴルフ場から公共性のある放送局に切り替えて開催に漕ぎ着けた。

優勝盃を受ける樋口久子、プレゼンテーターはTBS会長(当時)今道潤三 優勝盃を受ける樋口久子
プレゼンテーターはTBS会長(当時)今道潤三

第1回TBS女子オープンゴルフ競技大会は昭和43年11月11日〜12日にかけて越ケ谷ゴルフコースで行われ、樋口久子さん(現日本女子プロゴルフ協会会長)がアマチュアの強豪を寄せつけず、初のチャンピオンになり、プロの強さをみせつけた。樋口さんは36ホールを148打で回り、優勝賞金20万円を手中にした。

提唱者の今道さんは樋口さんの大健闘にすっかり気をよくして、大会終了を待つまでもなく、早々と継続開催を宣言した。大会は暗中模索の状態でスタートしたが、樋口さんの実力、若手の登場などによって主催者のTBSは確かな手応えと自信をつかんだ。

主催権の日本ゴルフ協会への移管

今道さんが感謝の気持ちを込めて関係者に発送した墨痕鮮やかな書状 今道さんが感謝の気持ちを込めて関係者に
発送した墨痕鮮やかな書状

女子オープンゴルフ競技は43年から3年連続でTBSの主催で続いた。だが、一私企業の主催では、所詮プライベートトーナメントの域から脱却できない。 昭和46年から主催権はTBSから日本ゴルフ協会の手に移った。

大会提唱者だった今道さんは、『それが本筋(主催権の移管)というもの。一私企業の手にとどめるべきではない』と高所からのコメントを発表し、昭和46年8月10日付けの墨痕鮮やかな書状に感謝の気持ちを認めて関係者に発送した。その書状は『日本女子オープン選手権大会、並びに日本オープン選手権大会のテレビ放送は、いずれも弊社が責任もって担当することに決定いたしました』と結んだ。

今道さんのゴルフ熱中時代

前出の木元尚男さんは今道さんのゴルフについて『今道さんはTBSに入社後、50歳前後でゴルフを始め、10年後には小金井CC倶楽部のハンディキャップ10になったと記憶しています。ゴルフに大変熱心な方で、関係者によるゴルフ会があるとスタート前、前回できの悪かったクラブを打ち込んでスタートしていました。プレー後の練習も怠らず、入浴したことはありませんでした』ゴルフ大好き人間だからこそ、女子プロ黎明期にオープンゴルフの開催を思い立ったのだろう。

いまをときめく日本女子オープンゴルフの主催者は変っても、手がけた今道さんの熱意とTBSの実績は永遠の語り草になろう。

女子ゴルフ界の変遷と
女子プロゴルファーの台頭

女子プロゴルファーの誕生には
一個人の努力があった −松島杲三氏−

戦前の女子ゴルフの牽引者

日本の女子ゴルファーの草分け的な存在は関東の三井栄子夫人(さきこ・1895〜1977 )、関西は西村まき夫人(1897〜1991 )だ。この二人の内で実力ナンバーワンとなると、夫君の弁蔵氏(三井物産元役員)とともにアメリカでゴルフの多くを学んできた三井夫人だろう。三井夫人は帰国後の1926(大正15)年から1937(昭和12)年に至るまでの12年間、夫人の関東、関西対抗戦において常に最高の実力者といわれ、女子ゴルフの先駆者として大活躍してきた。その時代の日本のゴルフ界には女子のプロフェッショナルは存在せず、女子のためのアマチュアチャンピオンシップも開かれていなかった。したがって、東西対抗戦が唯一、女性の実力を問う場だったのだ。

相模CCで行われた在日米軍夫人との親善マッチ。写真の日本人夫人は阿座上秋子(左)と鍋島紀久子(右) 相模CCで行われた在日米軍夫人との親善マッチ。
写真の日本人夫人は
阿座上秋子(左)と鍋島紀久子(右)

その三井夫人がいかに卓越した技量の持ち主だったかは、1930(昭和5)年の快挙で推し量ることができる。この年、アメリカゴルフ界の代表的な名ゴルファー、ウォルター・ヘイゲンが日本ゴルフ協会の要請で来日した。三井夫人はヘーゲン、赤星四郎、赤星六郎さんらとのエキシビジョンマッチに乞われて出場し、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースでプレーした。このとき三井夫人のプレーは会心のできでハーフ36のスコアで回った。これに驚いたのは遠来のヘーゲンだった。『信じられ難いこと』と痛く感動し、愛用のクラブ(ウェッジ)を三井夫人にわざわざプレゼントした。

三井夫人は旧子爵の家庭に育ち、絶世の美人との誉れが高く、筆もたつし、歌も詠む。すべてを兼ね備えた才女であったからこそ、日本を代表する女流ゴルファーの至宝、象徴ともいうにふさわしい人物だった。戦前、戦後を通じて日本女子ゴルフ界の牽引役で、JGAの初代女子委員会委員長を務めた。女子ゴルフの普及にはなみなみならぬ情熱を傾けた一人だ。

1953年、第1回全日本女子ゴルフ競技の開催を伝える読売新聞この大会は後に日本女子アマチュアゴルフ選手権競技へと、引き継がれる 1953年、第1回全日本女子ゴルフ競技の
開催を伝える読売新聞
この大会は後に日本女子アマチュア
ゴルフ選手権競技へと、引き継がれる

女子ゴルファーの増加

日本の女子ゴルフは太平洋戦争を挟んで世相が大幅に変化したように、ゴルフ愛好家が増えたのもスポーツ界でいう大きな特徴だった。戦後、日本の女子ゴルフ競技が復活をみたのは、神奈川県の相模CCで開催された日本の婦人達と在日米軍婦人達による親善マッチに起因する。これに出場した大柄な米軍の婦人ゴルファーたちはむじゃきに白球を打った。戦前の堅苦しい風潮の中に育った日本の婦人達はその様子に驚いた。それまでの日本の古いゴルフを一掃するかのように米軍の婦人達はフランクなゴルフを展開して新風を巻き込んだ。これに刺激されて女性のゴルフ熱は高まる一方で、その数は次第に増えていった。

こうした流れが下地になって1953 (昭和28)年、讀賣新聞社が全日本女子ゴルフ大会(相模CC )を開催した。これが日本のゴルフ界で開かれた最初の全国規模の大会であった。ホームコースの利点を活かした伊沢鈴子夫人が優勝した。1956(昭和31)年、関東女子ゴルフ選手権が小金井CCで開催され、映画女優だった荒川さつき(荒川五月)さんが優勝したのに周囲は驚いた。彼女は戦後間もなく、鎌倉在住の文士たちが中心になって開催した鎌倉カーニバルにおいてミス鎌倉に選ばれ、その後、映画界入りして『窓から飛び出せ』という映画に主演した知名度の高い女性だったからだ。それが窓ならぬゴルフ界に飛び出したのだから周囲がびっくりしたのはいうまでもなかろう。これをきっかけに女子ゴルフ界では、“職業婦人ゴルファー”の進出が目立ち始めた。

女子プロと女子プロ協会の育成

日本のゴルフ界は草創期においてアマチュアがプロを育てた。女子の場合も同じだ。だが、女子の場合、ゴルフが盛んになった1965(昭和40)年頃でも、アマチュアの方がゴルフの知識、技量とも上だったから、女子プロのトーナメントを開催して技を競わせ、賞金を稼がせるようなことは想像すらできなかった。しかし、日本の女子ゴルフ発展の途上のこの時代において、女子プロゴルファーとしての職業を確立させ、これが成り立つことを夢見ながら苦しい修行を積んでいた若い女子プロ候補者が大勢いた。それを育てようとした篤志家もいた。

日本女子プロゴルフ協会名誉会長になった赤星四郎さんを囲む女子プロたち(階段に立つ集合写真) 日本女子プロゴルフ協会名誉会長になった
赤星四郎さんを囲む女子プロたち
(階段に立つ集合写真)

日本で最初の女子プロを育てようとしたのは静岡県の川奈ホテルの創業者、大倉喜七郎氏で戦前のことだ。プロ候補に上がったのは台湾出身のプロ陳清水さんの奥さんになった人だった。彼女がまだ川奈ホテルに勤務していた頃、レッスンのできる女子プロを育てようと大倉氏は育成に乗り出した。だた、彼女は『プロとはなにをするのか、分からなかった』と半信半疑のまま家庭人になった。もし、実現していたら、まぎれもなく日本の記念すべき女子プロの第1号だったろう。その後、大倉氏は川奈ホテルのコースに勤務していた杉本伊代子さん(故人)をプロとして世に送り出した。杉本さんは『伊代チャン』の愛称で親しまれたが、女子プロが社会的に一人歩きする前に他界したのは気の毒だった。

日本の女子プロの組織、生い立ちの裏面には、もう一つ大事なことが潜んでいる。これに触れておきたい。『日本のゴルフ場で働く女性の従業員は働き放しでなにもない。アメリカには女子プロがある。日本でもキャディを中心にしたプロに準ずる同好会組織を作ってもらえないか』と切り出したのは女子プロ一期生の原田経子さんだった。この話を耳にしたゴルフショップの経営者、松島杲三氏が物心両面から女子プロの育成を支え始めた。松島氏は元来アイスホッケーの選手だったのが、『ゴルフを覚え、愛着があった』(松島さん)ことがゴルフ界に顔をだすきっかけだった。松島氏は将来女子プロを夢見る二瓶綾子さんらゴルフ場のキャディとして働く若い女性30人による同好会を結成し、有明のテニス場の周辺にあった東雲(しののめ)ゴルフクラブで発会式を挙行した。この同好会で開かれた月例競技や研修会にかかる経費は、松島氏が捻出した。

毎月、月例競技を開いて技術の研鑽を積む内に、野村駿吉氏(日本ゴルフ協会元副会長)の目に止まり、野村さんは援助の手をさしのべ、指導的な人材として往年の名選手、赤星四郎氏を推薦した。

ここで、初めて日本女子プロゴルフ協会という名称を使い、赤星さんは会長、松島さんが副会長に就任した。

第1回TBS女子オープンに参加した女子プロたち 第1回TBS女子オープンに参加した女子プロたち

日本女子オープン選手権難産物語

日本ゴルフ協会が日本女子オープンを主催するようになったのは1971(昭和46)年からだが、その前の3年間はTBSの主催だった。第1回大会の開催の賞金総額は50万円、優勝賞金は20万円。競技開催の諸準備は整ったものの、女子プロがどれだけの技量を持っているのか、アマチュアのご婦人の方のほうが強いのではないか、アマチュアのご婦人が出場してもプロと一緒にはプレーしないのではないかと周囲は野次馬的にやかましかった。

しかし、蓋を開けてみたら大成功だった。参加は98人(内アマチュアは43人)、季節的には肌寒く、プレーヤーには気の毒な天候だったが、予想通り樋口さんが148打で優勝した。第1回大会の成功は、主催者に今後の継続開催を決意させるのに十分なものだった。

その後、日本女子オープンはTBS主催で創設から3年間開催され、その間は樋口さんの連続優勝が続いた。ハワイからジャッキー・ブンさんも出場したことがある。1971(昭和46)年にはJGAの理事会でTBS女子オープンを引き継ぐことが決議され、日本女子オープンはナショナルオープンとして位置づけられることとなり、現在まで、開催されている。

女子ゴルフ界を発展させる新世代の活躍

婦人ゴルファーから歩みを始めた日本女子ゴルフ界が大きく変容したのは21 世紀に入ってからだ。これまでの女子ゴルフ界の中心は大学生や婦人ゴルファーであったが、10代いわゆるジュニアゴルファーがその核を形成するようになったのだ。1984(昭和59)年に服部道子さんが日本女子アマを制したのは16歳の時。このころから徐々にジュニアゴルファーが実力をつけはじめ、全国的な試合でも上位に進出する姿が見られるようになった。そして、JGAでも国際試合に臨むにあたり、ナショナルチームを編成することになり、1990年代には、現在プロとして活躍している坂上晴美、中島真弓などがナショナルチームメンバーとして国際経験を積み、ジュニア世代が活躍する胎動を感じさせた。

大学時代にアイスホッケー部で関東を代表して国体に出場していた松島杲三さん。 大学時代にアイスホッケー部で関東を代表して
国体に出場していた松島杲三さん。

ジュニアゴルファーが女子ゴルフ界の中心となったのが現実のものとなったのは、2000年の日本女子アマチュアゴルフ選手権だった。この年のマッチプレー決勝戦は紫垣綾花と古閑美保の高校生同士の対決となり、その後の日本女子アマの決勝戦はジュニアゴルファーで争われることとなる。そして、現在、宮里藍や横峯さくら、諸見里しのぶに代表される「宮里世代」ともいえる10代ゴルファーは、女子アマチュアゴルフ界だけでなく、女子プロゴルフツアーでも好成績を収め、観衆の注目を集めている。今年の日本女子アマにいたっては、14歳の宮里美香が服部道子の最年少優勝記録を更新して話題を集めた。いまや、宮里の下の世代が台頭し始めている。彼女たちジュニアゴルファーが成長し続けることで女子ゴルフ界は今後も発展を続けることだろう。

松島 杲三さん プロフィール

松島 杲三さん プロフィール

1914(大正3)年、東京生まれ
明治大学卒業後の昭和12年に東芝に入社
戦時中、兵役に服したが戦後、東芝に復帰

大学時代からアイスホッケー部のレギュラー選手として活躍し、関東を代表して国体に出場している。戦後、ゴルフ用品を扱うフタバゴルフを創設し、コース売店を多数経営しながら、女子プロゴルフ協会を設立し、今日の日本女子プロゴルフ協会の基盤を築いた。

写真撮影:写真家 金谷喜久
 資料提供:(一社)東京ゴルフ倶楽部資料室

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